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【サハリン・スケッチ】「樺太の乙女、サハリンのジェーヴシュキ(女の子達)」〜77年の時を超えた空想〜

一枚の写真から


ここにある一枚の写真。
今「サハリンスケッチ」を読んでいただいている皆さん以外に見せたら、どこの風景だと思うだろう。

撮影 AJ

海辺の丘にビルが立ち並ぶ港町。茶色く輝く髪にショートデニムの二人の若い女性。写真では表情は見えないが、大人のセクシーさと少女のあどけなさの中間のような、青春真っ只中の眩しさを感じた。爽やかだ!

ここは地中海か、黒海か。どこかヨーロッパの港町に見えるだろうか。いや、女性のバッグの柄が星条旗であることに気が付いたら(笑)、カリフォルニアに見えてくるだろうか。

答えは・・・
そう、もちろんサハリンなのだが、ホルムスクという港湾都市だ。しつこいが、ここは北海道のすぐ北隣の島。こんな近くにこんな感じの風景が広がっているのだ。

ホルムスクとは、ロシア語で「丘の街」の意味。確かに、港のすぐ横が丘になっている。1905年から45年までの日本統治時代は、真岡(まおか)と呼ばれていた。ちなみにこちらはアイヌ語が由来で、「静かな場所」の意味など、諸説あるようだ。

Googleマップを加工

日本時代の真岡を想像してみる


日本時代の行政区分を示した地図で見ると、こうだ。樺太庁の中に、かつての北海道と同じように、いくつか「支庁」があり、真岡は真岡支庁の中心都市だったようだ。

全国樺太連盟のHPより


前回ご紹介した、あの博物館がある、サハリン州の州都にして最大都市の、ユジノサハリンスク市(日本時代は豊原市)を車で出発。

ユジノサハリンスク遠景  AJ撮影

すぐ南隣の島である北海道とよく似た風景の道を走ること2時間弱。

撮影 AJ

サハリン島の西海岸に辿り着く。
写真はホルムスクではなく、近くのネベリスク(日本名は本斗=ほんと)だが、ホルムスクもこのような感じの場所にある。丘が海岸線まで迫り、美しい海にはオットセイの姿も。戦前も自然は一緒だったはずだ。

サハリン西海岸のネベリスク AJ撮影

この地域の日本時代の地図が、全国樺太連盟のHPに載っていた。
地図を見ていると不思議な気持ちになってくる。

全国樺太連盟のHPより

地図を目を凝らして見てみてほしい。

苫舞、知志内、など北海道を彷彿とさせる地名が並んでいる。アイヌ語由来であるためか。かと思えば、清水、野田、逢坂、中野など本州っぽい名前もある。所々、「殖民地」という記述もあるので、日本各地から入植した人たちの出身地が由来なのだろうか。北海道でよくあるように。

これらの謎は、今後勉強して解明していきたいが、この地図をずっと眺めていると、不思議な気分になってくるのだ。ここは北海道か東北のどこかじゃないのか。あのロシア人のジェーヴシュキ(女の子達)がいる港町と、本当に同じ場所なのか。なぜあの写真の場所の地名が漢字で書かれているのか。なんとも言えない変な気分になってくる。

あの日、真岡で起きた悲劇


もうこの地図を見た時点で、気持ちは戦前の樺太に行っている。

私は、何事も「想像すること」が大事だといつも信じている。
今から77年近く前のこの地がどんな場所で、何が起きたのか。正確に想像することはできないけれど、心を寄せることだけはできるはずだ。

実はこの真岡は、悲劇の場所として知られていた。

その悲劇とは何かを知るには、サハリンから戻ってしまうのだが、北海道の北端の稚内市にある、この石碑を見ればいい。海のすぐ向こうのサハリンを見るように建っている。

稚内市のホームページより

「9人の乙女の碑」。
碑には「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」と彫られている。
そして、こう書かれていた。

戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。
 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む

稚内市のHPより

日本では終戦は昭和20年8月15日と皆が思っているが、前の「サハリン州郷土博物館」の記事でも書いたように、ここ樺太では違った。

8月20日。ソ連軍が真岡に上陸を始めた時、地元の郵便局で電話交換業務に携わっていた女性交換手9人が、最後の最後まで職場に残り通信を続けた後、青酸カリを飲んで自決したのだった。ソ連軍上陸で女性に何が起きるかを考えて尊厳を守ったのだという。

そして碑には、その9人の交換手の名前が書かれている。私はまさにこれが大事だと思う。お会いしたこともなく顔も知らないが、想像をしてみる。

高石ミキ(24) 可香谷シゲ(23) 吉田八重子(21) 志賀晴代(22) 渡辺照(17)高城淑子(19) 松橋みどり(17) 伊藤千枝(22) 沢田キミ(18)

稚内市のHPより

歴史はとかく「国」が主語で語られるが、死ぬのは、それぞれの「人」だ。

国際情勢の分析や戦略的な研究をしたりする時でなければ、戦争を語る時は、人の「顔」を思い浮かべることを忘れないようにしたいと、いつも思っている。

世の中にはこうした考えを、“青臭い”として、バカにする人が結構いる。しかし、分析をしたり戦略を考えたりする時こそ、人の顔と気持ちを考えるべきかもしれない。それを軽視して失敗し、結局自分達を含め多くの人を不幸に陥れた歴史は世界中にある。

「○○国は・・」「○○人は・・」など、一括りにして、“わかったようなこと“を言わないようにしたい。そこには、一人とて同じでない「人」の生き死にが関わっているからだ。

ちなみに、この悲劇の現場は壊されて残っていないが、今建っているビルも郵便局として使われているという。しかし、どこにもモニュメントなど当時を偲ぶものは残されていない。

「樺太の乙女」と「サハリンのジェーヴシュキ」


この女性たち、年齢を見てみると、17歳から24歳まで。
まさに、最初の写真の、若さを堪能しているロシア人のジェーヴシュキと同じ世代ではないか。

80年近く前にこの地にいた乙女と、今ここにいるジェーヴシュキ。

国籍、考え方、言葉、着ている服まで、何から何まで全く違う。しかし、きっとこの世代の女性ならではの悩みも喜びも、根本は同じだとも想像する。

想像しか、していないけれども。想像することは、大事なのだ。

そして最後に、思ったのは、想像は、かつての樺太の日本の人たちだけでなく、今ここに住むロシアの人々についてもしてみるべきだろう、ということだ。

とかくこの「9人の乙女」の話となると、”ソ連、ロシア憎し”の感情をむき出しにして語られることが多い。それはごく自然な感情かもしれない。

しかし、今ここに住む人たちにとっては、”サハリン”がふるさとであり、今後もここで生まれた人が多くなり、ここで日々泣き笑い、必死に生きている。「国」を主語に語ることと同時に、そうした人たちの気持ちを想像することも、できることだし、絶対に必要なことだと、私は思っている。



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AJ 😀


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