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本人も家族も後悔しないように「終活」を真剣に考える

終活という言葉をよく聞く。うちの母も60手前になり、そろそろ具体的に考えるようになったとこの間話していた。

終活とは・・・自らの人生の終わりに向けた活動の略語。現在では、死後に向けた事前準備だけでなく、人生の終焉について考えることによって、今をより良く生きるための活動というポジティブな意味に広がってきている。


NOTEをはじめて、私はおじいちゃんの死によって仕事の仕方が変わったという記事を書いた。

大好きなおじいちゃんの生きれる時間がもう長くないとわかった時、私は病院に足が向かなくなっていた。仕事が忙しいと言い訳をしていたけれど、多分身内の「死」を受け入れられなかったんだろう。仕事では多くの患者さんが息を引き取る瞬間に立ち会っていたのにも関わらず、イチ家族となってしまうと大事な人がいなくなることは耐えられない。あんなにも大きい背中が日に日に小さくなっていき、おじいちゃんの身体が病気に蝕まれているのは一目でわかるくらいだった。

親族の中で唯一医療従事者の私に毎日のように母は電話をしてきた。今日は先生から説明があってこんな治療があると聞いたとか、年末には一緒に迎える最後の正月になると思うので楽しい時間を過ごして下さいと言われたとか、緊急時の処置の希望(専門用語ではCPRの確認のこと)を家族で相談しないといけないとか。私の母は長女でキーパーソン(患者の中心人物)だったので負担は大きかったのだと思う。おかげであまり見舞いに行かなくても大体のことは把握できていた。おばあちゃんの前ではきっとしっかりしているのだろう。私との電話では弱音を吐くことが多かった。泣きながら話したのがほとんど。母の気持ちが痛いほどわかり私も泣きながら言葉にならない思いを「うん、うん」と聞いていた。

きっと正解なんてなかった。ただ限られた時間の中で後悔のないように精一杯してほしいと思っていた。泣きじゃくる母を「お母さんがそうしたいと思うのならそれでいいと思うよ」と毎回言っていたような気がする。

自分の親が亡くなるって案外想像できない。だって当たり前にいるものだし、親がいない生活って非現実的だ。いつも実家に帰れば好物の夕飯を作ってくれているし、電話口の声だけで落ち込んでいることに気づいてくれる。
だから、母にかける言葉が見つからなかった。

母とのやり取りの中で”死”が目前に迫っている人の家族ってこんなにも悩んで、考えて、苦しい思いをするんだと感じた。看護師として患者の家族とは数えきれないくらい携わっていたのだけれど分かった気であたりさわりのない言葉を並べていたにすぎなかったのだと考えさせられた。


おじいちゃんが息をしなくなるその時、私は夜勤中だった。夜が明けてもうひと頑張りしようと動き始めた6時頃、携帯が鳴った。

「おじいちゃん、いっちゃった」と母からのメールで全てを悟った。

あぁ、もういなくなったんだ。と思いながらも、現実っぽくなくて、悲しい気持ちは湧かなかった。いつもと変わらない表情で淡々と仕事をしていた。


人の死はあっけない。おじいちゃんは幸せだったのだろうか?私はおじいちゃん孝行できていただろうか?実家に帰る車中もっと何かできたんじゃないかと考えていた。

いつも父親のように私たちを見守ってくれていた。ありがとうってもっと言っておけばよかった。もっと顔を見にいけばよかった。

もっと・・・、もっと・・・。

頭の中では後悔の思いでしかなかった。



私は今、緩和ケア病棟で働いている。おじいちゃんを通して今度は看護師の立場でターミナルケアの患者さんとその家族に寄り添っていきたいと思った。死という終末期を本人も家族も受け止めて旅立っていってほしいという願いがあったから。

違う。自分はちゃんと出来ていただろうかと出ない答えを知りたいと思って「緩和ケア」に足を踏み入れたのかもしれない。


昨日、デスカンファレンスに参加した。死亡退院した患者さんを取り上げてケーススタディの中で振り返りを共有する会議。文章にすると不謹慎ととられるかもしれないけど、あくまでも今後の看護の質を上げるために行うことなので続けて読んでほしい。患者にとっていい看護はできていたのかとか、もっと介入する余地があったのではないかと今後の課題を見出すもの。今回取り上げた患者さんは入院して約1か月ほどで亡くなった。家族である奥さんは毎日面会に来ており本人の世話を熱心にしていたそう。担当の看護師とは深い信頼関係が出来ており、死に対して本人の思いを引き出せることが出来たと話していた。家族にもなかなか話せない心の奥の部分は簡単には聞き出せない。看護師ー患者の関係ではなく、人間ー人間として関わっていたからこそだと思った。私は、こんなにも1人の人間として尊重して仕事をしてはいなかったと思い反省した。

本人と奥さんはずっと前から亡くなることを想定し話し合っていたようで、まさに終活を意識して1日1日を過ごしていたのだ。
大事な人がいなくなると考えるだけでも目を背けたくなるもの。けれど、前向きにとらえて限られた時間を後悔しないようと真摯に送っている姿が目に浮かぶようだった。

きっと素敵な夫婦だったんだろうな。本人も家族も最後の時まで笑顔だったに違いない。


「死」というとやっぱりネガティブな印象になる。有名人が亡くなったとニュースで見ると大往生であってもしんみりとなってしまう。知り合いでもない人でも悲しい気持ちになるから家族となればもっと深いものだろう。

入院しているからには何か治療をしないといけないという考えだったけど、緩和では患者にとって穏やかな毎日を送ってもらうことが看護師の仕事だった。

言葉の裏にある本当の思いをくみ取ることが本人のその後に大きくかかわっていくということをケーススタディで思い知らされた。


今度、実家に帰った時には母が考えている終活を聞いてみよう。母が亡くなるのはまだまだ先かもしれないけど、どんな死を望んでいるのか知らないといけない。


その時にお互い後悔しないように。






最後まで記事を読んでくれてありがとうございました!