【小説】烏有へお還り 第1話
第1話
生暖かく湿った風がアスファルトの敷地を這うように近寄ってきて、屋台のテントや幟をはためかせた。結わえた髪がほつれる。
蛍光色のスタッフジャンパーに身を包んだ少し太めの女性と共に、さな恵は幟の刺さっていたスタンドに手をかけた。
「せーの」
声をかけ合い、重量のあるそれらを台車の上に載せる。うまくタイミングを合わせれば、驚くほど重さを感じない。
すべてのスタンドを台車に並べ終えると、さな恵は軍手をはめた両手をはたいた。砂ぼこりが舞う。乱れて口紅に貼りついた髪を、手首で払った。
ふと異臭が鼻をかすめた。なんだろう。嫌な臭いなのに、深く吸い込んでしまう。
生臭い。けれども、腐った魚が放つほど野蛮な臭いではない。もちろん汗の臭いでもない。
ここから車で十分くらいのところに海があることを唐突に思い出した。潮の香りなのかもしれない。
この街の半分は埋立地だ。さな恵が立っているこの場所も、かつては海だったらしい。近代的なビルが立つ景色からは想像がつかない。
それと関係があるのだろうか。夕方になり雲が空をふさぎ始めてから、なんだかおかしな臭いがする。
「あー! やっぱり降ってきた」
にぎわいの中から、誰かの大きな声がひときわ響いた。反射的に顔を上げると、さな恵の頬にぽつりと水の粒が当たった。
水を吸い過ぎて黒くなった雲はどんよりと重く垂れさがり、西へ帰っていく太陽と示し合わせたように、みるみる辺りを暗く染めていく。さな恵ともう一人の女性は慌てて、台車の上のスタンドをロープで固定した。
頬に雨粒の当たる間隔が短くなる。アスファルトに沁み込む灰色の模様が大きくなる。簡単には止みそうにない。
「やばい、急ごう」
スタッフジャンパーの女性はハンドルを強く握ると、
「あたしはこれ運んじゃうから、さな恵ちゃんは他の人を手伝ってあげて」
と言い置いて、建物の方へ駆けて行った。
本格的に降り出した雨に、周囲から悲鳴が上がる。屋根の下に逃げこもうとする人の流れとは逆の方向へ駆けていくと、広場の中央で痩せた男性と共にテントの骨組みをまとめている吉川の姿が見えた。
「手伝います!」
「ありがとう。助かるわ!」
まとめ終えた骨組みを男性が運び去り、残ったテントの布を吉川と一緒に畳んでいく。共に抱えながら倉庫の屋根の下に飛び込んだ時は、さな恵も吉川もびしょびしょになっていた。
「いやー、まいったね」
吉川が軍手を外し、手で濡れた服を払った。ぽたぽたと水が滴り落ちる。
さな恵はズボンのポケットからタオルを取り出した。わずかに湿ったそれで、髪や服の雨粒を吸い込ませる。
「それにしても、この時間までお天気が持ってくれたのは良かった」
吉川の言葉に、さな恵は苦笑いしながら頷いた。今朝は明るかったはずの空が、まだ夕方だというのにすっかり暗い。天気予報の通りになった。
せっかくのお祭りが天候に恵まれるようにと、さな恵は一週間も前から気にかけていた。『雨』とされていた予報は三日前くらいから『曇のち雨』に変わり、昨日はとうとう『夕方から雨』になった。吉川から「予定通りに決行」という連絡を受け、お祭りが終わるまで天気が持つようにひたすら祈っていた。
「盛況でしたね」
さな恵の言葉に、吉川が微笑む。予想以上の来場者のおかげで、カレーと焼きそば、わたあめは早々に完売した。他の食べものも終了前までにはきれいになくなり、わずかに残っているのはペットボトルの飲み物と、ワゴンの中の駄菓子くらいだ。
雨が降り出す前に、来場者はほとんど帰途についていた。屋台の売れ行きが良かったおかげで、役目を終えた大鍋やガスボンベなどは一足先に屋内へ運び込んである。
最後の片付けの最中で降られたものの、ここまで持ちこたえられたのは幸いだった。
「ああ、濡れちゃったね。さな恵ちゃん、着替え持ってきてる?」
吉川がさな恵の服についた水を払う。さな恵はおでこに貼りついた前髪を整えながら首を振った。
「いいえ、でも大丈夫です」
家はここからさほど遠くないし、折りたたみの傘は持参している。
「さな恵ちゃん、今日は本当にありがとうね」
吉川の言葉に、さな恵は照れながら首を振った。
吉川に誘われてフリースクールのお祭りを手伝うことになったのはほんの偶然だ。
二週間ほど前の、気持ちよく晴れた休日の昼下がりだった。会社に着ていくためのオフィスカジュアルな服を求めて、ショッピングモールに向かうバスを待っていたさな恵は、掲示板に貼られたポスターに目を引かれた。
『第四回 ひまわりセンターまつり』と書かれたロゴの下には、学生によるものか、可愛らしいイラストが描かれている。アニメのキャラクターのようだが、顔だけでなく服のしわや手の指、小道具などまで細かく描かれているところに感心した。
高校のクラスメイトに同じようにイラストの上手かった友達がいたことを思い出していると、
「それ、誰でも来ていただけるんですよ」
突然、声をかけられた。驚いて振り返ると、さな恵よりも一回りくらい年上の女性がこちらに笑顔を向けて立っていた。
知らない相手に驚き、身をすくめると、
「ごめんなさいね、急に」
と言いながら、女性はポスターに一歩近づいた。
「これね、『ひまわりセンター』っていうフリースクールが主催して、お祭りをやるんです。スクールは生涯学習会館の中にあるんですけど、お祭りの会場はそのすぐ近くのふれあい広場の方。毎年こうして、地域の人たちと交流してるんです」
「フリースクール……」
さな恵の呟きに女性が頷き、
「そう、フリースクール。聞いたことあるかしら。なんらかの理由で学校に登校できなくなってしまった子たちのための教育施設」
と言って、ポスターに目を戻す。
「わりと本格的でね、食べものの屋台や、ヨーヨー釣りみたいな模擬店も出すの。ここに通う子たちが主体になってやるんですよ」
まるで我が子の成長を自慢するように、彼女が目を細めた。
「『不登校』って、なんだか偏ったイメージを持たれがちですけど、とっても明るくていい子たちばかりなんです」
「ええ」
力を込めて相槌を打った。女性がふと眉を上げ、じっとさな恵を見つめる。
「もし、ご興味があれば」
女性が鞄から革のケースを取り出した。
「当日のスタッフも募集中なんです。手が足りなくて……って、厚かましくてごめんなさいね」
差し出された名刺には『吉川江以子』と書かれている。
「ここにセンターの電話番号と、わたしの携帯番号があるの。ご都合がよければ」
さな恵の手の中の名刺に書かれた項目を指差すと、少し早口になり、
「ごめんなさいね、若い人は色々と忙しいわよね。もちろんスタッフじゃなくても、普通に地域のお祭りだと思って来てもらえるだけで嬉しいわ」
と言ってにっこりと笑った。
やってきたバスに乗った。目礼して離れた席に座り、もらった名刺にもう一度目を落とす。吉川の肩書きや、フリースクールの正式名称、住所を確認してから鞄のポケットに入れた。
目的のバス停で降りてから振り返ると、さな恵に気づいた吉川が窓の向こうから笑顔で手を振っていた。走り出すバスを見送りながら、さな恵も手を振り返す。
押しつけがましくない態度に好感を抱いた。少し迷ったものの、思い切って電話をかけ、当日スタッフとして手伝うことが決まった──。
「風邪ひかないでね」
吉川が心配そうに、自分のタオルでさな恵の髪についた雫を拭き、
「あっそうだ、よかったら駅まで送るわ」
両手で空を掴み、ハンドルを握る真似をした。
「いえ、大丈夫ですよ」
首を振るさな恵に、
「いいのいいの、遠慮しないで。どうせ他にも、女子高生を二人乗せていくんだから。二人も三人も一緒よ」
吉川が片目をつむる。濡れた靴下のせいで足の指が冷たい。素直に甘えることにした。