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【小説】烏有へお還り 第17話

   第17話

 シュッ、シュッと板を削る音がここちよく耳に届いた。手のひらを板に密着させ、細かい部分を加工していく。

 わずかな力の入れ具合は、頭で考えるよりも身体が自然に動く。指先の感触を研ぎ澄ませながらも、心は半分だけリラックスするやり方が、最近ではなんとなくわかってきた。

 溜まった木くずを吹き払った。削った箇所に触れて滑らかさを確認し、また道具を持ち直す。

 静かだった。板が囁きかけてくる声すら、聞こえる気がする。まるで最初からそこに埋まっていたかのようなさまざまな形が、取り出されるのを待っている。

「和志」
 肩に手が置かれる。静寂が途切れた。板と道具と自分の指先の外に世界があったことを思い出し、一瞬だけめまいがする。

「ごめん、集中してた」
 祖父を振り返る。何度も呼ばれたのかもしれない。ちっとも耳に入らなかった。
 加工場の中はざわめいていた。職人たちが席を立ち、固まった身体を伸ばしながら話をしている。何人かが汚れた手を洗っていた。

「もう昼?」
 時計に目をやった。背中を伸ばす。左右にひねると、ぱきっと音がした。
 祖父が和志の掘っていた板に目をやった。じっと黙っている。和志は落ち着かない気持ちで目を背けた。

 祖父は滅多なことでは褒めない。かと言って貶すこともない。こちらがアドバイスを求めても、「自分で考えたのか」と突き放されることもある。

「飯にしなさい」
 そう言って、祖父は加工場の中にある扉の奥へ姿を消した。そこはほんの三畳ほどの部屋で、古い小さな作業台と椅子が一つだけ置いてある。棟梁の部屋だった。

 和志は手を洗い、自分の鞄の中から弁当を取り出した。加工場の中ではおよそ半分の職人たちが弁当を広げており、残り半分は近所の定食屋に出かけたようだ。

 弁当を手に、和志は外へ出た。秋の風が落ち葉を転がす乾いた音がする。腕に引っかけてきた上着を羽織った。少し肌寒い。

 この地方の秋は短い。あっという間に冬になると、落ち葉の代わりに、今度は雪が地面を覆いつくしてしまう。

 木々の間を歩いた。すぐ近くには生涯学習会館があり、加工場との間には雑木林がまたがっている。そこはわずかに小高い丘になっており、そのふもと部分にほんの二段ほどの石の階段があった。

 腰を下ろすのにおあつらえ向きで、和志はいつもそこで弁当を広げた。目の前には大銀杏が立っており、かかっている札の文字はすっかり判別できなくなっている。

『えっ、和志くん、中学三年生なの!?』
 弁当を食べながら、先日訪ねてきた柚果のことを思い出した。

 彼女とは、祖父に頼まれ秀玄彫り体験のスタッフをした時に初めて会った。少しだけ彫り方を教えたが、その時の印象はあまり残っていない。

 同級生の男たちに囲まれている彼女を助けたのはそれから半月後だ。少し見ただけで、不穏な様子にすぐに気づいた。

 わかっていて目を逸らした。自分が行かなくても、彼らの間で勝手に解決してくれることを望んだ。

『本当にありがとうございます』
 もっと早く助けてやることができた。チクリと胸が痛み、柚果に頭を下げられてもなにも言えなかった。

『……また来てもいいですか』
 そう言った時の柚果に、かつての自分が重なる。

『また……来てもいい?』
 初めて加工場の隅で板を彫らせてもらった後、連れ出してくれた祖父に尋ねた。

 学校に行かず、家に閉じこもって半年以上が過ぎた頃だった。祖父は目を細め、黙ってうなずいた───。

 ふと、誰かの気配がした。顔を上げる。
 大銀杏の陰に目を凝らした。乾いた落ち葉が風に流され、ざわざわと音を立てる。

「誰?」
 呟きが、独り言のように自分の耳に戻る。

 木々が鳴る。落ち葉が音を立てる。静かだった雑木林に、学校の教室の喧騒が重なる。
 息を呑んだ。額や手のひらに汗が噴き出す。呼吸が乱れ、肩で息をした。手の中の箸を握りしめる。

「そこにいるの、誰?」

 返事の代わりに、細く高い囁きのような声が聞こえた。和志を取り囲むざわめきが大きくなる。耳を塞いでも、奥へ奥へ流れ込んでくる。

 同級生たちの大きな声。なにかが床に落ちる音。乱暴な足音。誰かを笑う声。こそこそ話す声。怒鳴り声。泣き声。不穏な空気。立ち止まる自分を追い立てるなにか───。

 息が苦しい。

 大銀杏の陰の人影が揺れるたび、音が大きくなっていく。

 箸が地面に落ちた。右手で胸を抑え、左手を地面について身体を支える。音は耳の中へ潜り、中から和志を突き破ろうとするように暴れ出す。

「和志!」
 祖父の声がした。そのとたん、音がやんだ。呼吸を整え、汗を拭って立ち上がる。加工場を見ると、祖父が手を振っているのが見えた。

「お客さんだ」
 そう言って祖父が半身を引く。和志に向かってぺこりと頭を下げる柚果の姿が見えた。

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