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【小説】烏有へお還り 第23話

   第23話

 遠くで鳥が鳴いている。
 和志は窓ガラスに寄ると、外を見下ろした。階下の出口から両親が現れ、頭を下げているのが見える。ここからは良く見えないが、見送っているのはおそらく祖父だ。

 わずかに母がこちらを見上げたような気がして、和志は慌てて隠れた。しばらく待ってから再び窓の外に目をやると、両親が駐車場へ向かって去っていく後ろ姿が見えた。

 冷えたサッシから外の冷たい空気が伝わる。ぶるりと身震いした。上着の前を重ね合わせる。
 無人の原寸場は静かだった。いつも五、六人が作業している一階の加工場と同じ面積の部屋に、大きな机が置かれている。

 さっきまで両親が座っていた椅子を片付けた。見ないようにしても、机の上のパンフレットが目に入る。

 母から連絡が来たのは昨日だった。

『明日、お父さんと一緒に大事な話をしに行きます』
 祖父母の家の固定電話でそう告げられた。

 祖父母の家に住むようになってから一年余りが経つ。中学に行かなくなってからスマホを手放した和志は、両親とあまり連絡を取っていない。顔を合わせるのは久しぶりだった。

『和志、元気にしてた?』
 そう言って顔をほころばせる母を、嬉しくないと言えばうそになる。けれども、緊張のせいで顔が固くなる。

『二階の原寸場を使っていいよ』
 共に両親を出迎えた祖父が和志に言った。

 広い机に向かい合わせになると、母はさっそく鞄の中からなにかを取り出し、和志の方へ押し出した。通信制高校のパンフレットだ。

『ここなら、週に一度だけ通えばいいって』
 なんの話をしに来るのか、なんとなく予想はしていた。黙ったまま上目遣いで母の顔を見る和志に、

『だって、中卒ってわけにいかないでしょう』
 心を読み取ってか、母が悲しそうな顔で言う。

『ここなら、ちゃんと高校卒業の資格も得られるって。だから、大学へも進学できるの』

 大学。

 あまりにも馴染みがない言葉に、思わず心の中で反復する。
 それまで黙っていた父が口を開いた。

『宮大工は厳しい世界だよ』
 和志がなにも言わずに下を向いていると、両親は顔を見合わせた。いくつか質問をされ、答えられるものだけにぽつぽつと返事をする。

『ともかく、考えておいてね。このままってわけにはいかないんだから』
 席を立った両親に、和志は下を向いたままじっと黙っていた───。

 机の上に置かれたままのパンフレットの表紙には、目を輝かせた学生たちの姿が映っている。和志の耳の奥から、ざわざわと音がした。動悸が激しくなってくる。

 中学二年生になって間もなく、急に耳がおかしくなった。休み時間でも授業中でも、耳の奥でざわめきが止まらない。ひどい時は耳鳴りや耳閉感まで引き起こされ、高速回転した後のように目が回り、真っ直ぐ歩けなくなる。

 症状はどんどん酷くなった。授業中に突然呼吸が乱れ、額や手のひらにびっしりと汗が噴き出る。まともに座っていられない。

『突発性難聴』
 病院へ行くと、最初はそのように診断された。しかしその症状には当てはまらない部分も多い。

『精神的なものかもしれません』
 いくつかの病院を回った挙句、大きな病院でそう言われた。診断を受け、薬も処方されたが、一時的に症状を食い止めるものであり、一日に何度も服用することはできない。

 長期で学校を休むことになった。けれども、自宅で療養していても発作に襲われる。薬を服用しても治まらないこともあった。

『気晴らしに遊びにくるか』 
 ある時、宮大工をしている祖父が声をかけてくれた。

 小さい頃、祖父の加工場に連れて行ってもらったことがある。

『やってみるか?』
 飽きずに見ていた和志に、祖父がそう言って道具を貸してくれた。

『ほう、筋が良いな』
 褒められたのはその一回だけ。けれども、和志にとっては充分だった。

『行く』

 学校に行かなくなってから半年、初めて自分で決めた。母の車で祖父の家まで送られ、加工場の隅で、見よう見まねで板を削る。

『和志』
 肩に手を置かれるまで気づかなかった。窓の外は日が傾き、いつの間にか時計が夕方を示している。

 あれほど耳の奥で騒いでいた音が消えていた。ねじれるような耳閉感もない。

『帰ろう。お母さんが待ってる』
 目を細めた祖父に、

『また……来てもいい?』
 すがるように言った。祖父はじっと和志の目を見て、なにかを考えるように頷いた。

 祖父母の家への滞在は、最初は「ひと月」と決められていた。けれども、

『治ったのならそろそろ学校へ』

 という両親に促されて自宅に戻ると、途端に発作に襲われる。そんなことを繰り返しているうちに、もう一年が経つ。

 本当は、先のことなど考えたくない。ずっとここにいて、一流の技術を身につけていきたい。けれども、

『宮大工は厳しい世界だよ』

 父に言われるまでもなく、わかっていた。宮大工の仕事は、主に社寺の修復だ。需要は多くない。

 だから宮大工のほとんどは、通常は家大工として働いている。国宝級の社寺の修復が行われる時は、全国から名うての宮大工が集められる。

 どれほど学んでも、祖父のようになれるかどうかわからない。けれども和志にとって、ここがだめならどこにも居場所はなかった。

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