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【小説】烏有へお還り 第3話

   第3話

 ずいぶん遅くなってしまった。ひょっとしたら置いて行かれたのではないかという悪い想像が頭をかすめたが、さっきと同じ場所にダークグリーンの車体を見つけた。安堵して走り寄る。

「えっ、どうして」
 車中には人の姿がなかった。運転席のシートが外灯に照らされている。もちろん後部座席にも誰も乗っていない。

 車を間違えたのかと、辺りを見回した。けれども、さっき車を停めた場所で間違いない。念のため、車の中を覗き込んだ。バックミラーにぶら下げられたお守りのようなものにも見覚えがある。

「吉川さーん!」
 辺りはもうすっかり暗くなっている。駐車場には人の気配がないが、建物の周囲は木で囲まれており、裏手には雑木林がある。隠れる場所はたくさんありそうだった。
 ひょっとしたら、戻ってこない自分をみんなで探しているのかもしれない。

「吉川さーん!」
 迷子の子供のような、情けない声が出る。さっき職員がいた部屋の明かりが一つだけついていることだけが救いだった。

 ぽつり、となにかが頬に落ちた。空を見上げると、雨がまた降ってきた。
 どうしよう。手にしているお菓子の袋を放り投げたいような気持ちになる。三人を探しに行きたいが、ここを動けば入れ違いになってしまうかもしれない。

「さな恵ちゃん!」
 その声に飛び上がった。振り返ると、吉川が遠くから手を振り、走ってくるのが見えた。

「吉川さぁん!」
 半泣きの顔で駆け寄る。「よかったぁ」と呟いた声に、吉川の鋭い声が重なった。

「さな恵ちゃん、二人がいないの!」
「えっ!?」
 どくん、と心臓が音を立てる。お菓子の袋が濡れた地面に落ちた。

「い、いないって、どうしてですか?」
 吉川が険しい顔で首を振った。

「わからない。戻ってきたら二人の姿がどこにもないの。さっきから探してるんだけど、見つからなくて」
「そんな……」
 辺りはすっかり暗く、雨のせいか周囲の音も良く聞こえない。

「まさか、事故とか、犯罪に巻き込まれたとしたら……」
 思わず呟いた。自分の想像に、目の前が暗くなる。悪寒が走った。

『これ、売ってもらえるかどうか聞いてくるから、二人は車に戻ってて』
 さっきの自分の言動を思い出す。大人として、二人を置いてあの場から立ち去るべきではなかったのだ。

「あの、あたし、ごめんなさい。ちゃんと……あの、でも、車に戻ってって……」
 心臓がまるで耳のすぐ横にあるように騒がしい。指先が震える。

「さな恵ちゃん、しっかりして。とにかく、手分けして探そう」
 吉川がそう言って、誰もいない駐車場を見回してから、建物の右手に向かった。さな恵は吉川とは反対側の左手に向かう。木々が邪魔で先が良く見えない。

「アサミちゃーん!」
 声を上げながら、もう一人の女の子の名前を知らないことに気づいた。聞いておけばよかった。

「アサミちゃーん!」
 雨が再び激しくなりはじめる。外灯の光が届かず、何度も水溜まりを踏んだ。靴も靴下もびしょびしょだ。

「さな恵ちゃん!」
 敷地内を半周したところで、向こうからやってくる吉川に行き会った。
「そっち、見つかった?」
「いえ。そちらは」
 吉川が首を振る。さな恵は思い切って、

「あのっ、ひょっとしたら建物の中じゃないでしょうか」
 探しながら考えていたことを口にした。いつまでも戻ってこないさな恵か、または吉川を探して、建物内に入ったのかもしれない。そうだとしたら、あてもなく雨の中を探し回っても仕方がない。

「そうね。いったん戻ろうか」
 言いながら吉川が建物を振り返り、ひゅっと息を詰まらせた。

「さな恵ちゃん、あそこ……」
 吉川の震える指の先へ顔を向ける。建物を見上げると、雨粒が目に入りそうになった。手で避けながら目を凝らす。

 屋上に二つの人影があった。柵の外、ほんの数センチ身を乗り出せば落ちてしまうような場所に立っている。

「えっ……」
 さな恵は両手で口を覆った。辺りは暗く、外灯の光は二人の顔まで届かない。けれども身に着けている服装や体格からして、アサミと、眼鏡をかけていたもう一人の女子高生で間違いないようだった。

「なにしてるの、二人とも! 危ないよ! 降りておいで!」
 吉川が二人の真下まで駆け寄り、屋上に向かって必死で叫ぶ。しかし、二人の耳には届かないのか、動こうとしない。

「ねえ、だめよ。本当に危ないったら!」
 吉川の声に緊張が走る。さな恵は声が出せなかった。少しでも目を逸らせば二人の身に恐ろしいことが起こるような気がして、瞬きもせず立ち尽くす。

 背筋が寒くなった。逃げ出したい、目を覆いたい。けれども、食い入るように屋上を見上げながら、足は一歩も動かなかった。吉川が叫ぶ。

「やめなさい! ね、今からそっちに行くから、そこで待ってて!」
 やめてやめてやめてやめてやめて……心の中で繰り返す。息をするのも忘れ、目は離せないまま両手で口を覆った。

「だめ!」
 吉川が叫ぶのと、もう一人の女子高生が屋上から姿を消すのと同時だった。ドン、と振動がして、雨粒か、それとも泥か、さな恵の頬になにかが跳ね、貼りついた。とっさに目を瞑る。

 恐る恐る目を開けると、さっきの女子高生が奇妙な格好で地面に倒れていた。四肢があらぬ方向へ伸び、眼鏡は外れ、どこかに飛んで行ってしまっている。

 ただの人形かなにかではないかという一瞬の望みは消え去る。本物の人間だ。目はうつろに開いている。ぴくりとも動かず、生きている気配はない。

「はっ!」
 息が詰まり、喉の奥から悲鳴ともつかない音が出た。全身の毛穴からどっと汗が吹き出す。首の後ろの毛がちりちりと動いた気がした。

「アサミちゃん! やめなさい!」
 吉川の悲鳴に、さな恵はがたがた震えながら屋上に残ったアサミに目をやった。

「だめ……」
 呟きがもれる。さっき車の中で聞いたアサミの声が耳に蘇った。

『お母さんがね、お金くれないの。だからアサミ、いつもお昼食べられないの』
『家に帰ると、お母さんの煙草の吸殻で家中がすごい匂いで』
『あーお腹空いた。これ一つくらいなら十円で買えるかな』

 どうして。なんでこんな。ついさっきまで一緒に過ごしていたのに。しゃべっていたのに。
 どうして、こんな目の前で───。

「だめ! やめて!」
 さな恵が叫んだ。その瞬間、屋上からもう一つの影が消え、大きな衝撃音が響いた。さな恵は両耳をふさぎ、悲鳴を上げた。

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