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【小説】烏有へお還り 第36話
第36話
「今日は少しだけ暖かいわね」
志穂の母が窓の外へ顔を向けた。柚果は目の前に置かれた紅茶のカップに手を触れながら、同じように窓の外へ目をやる。
雪の降る屋上で母を救出してから、一週間が過ぎた。
父がフェンスをよじ登って、母を支えながら連れ戻し、弟が入院している病院へ駆けこんだ。大きな異常は見当たらなかったが、母は冷え切ったせいで体調を崩し、柚果も共に不調が続いた。
やっと回復して登校し、別室で一人テストを受けることになった。それを終えた今日、志穂の家に寄ることができた。
「すみません。志穂さんが相談した相手を探すことはできませんでした」
神妙に頭を下げる。
本当のことを全部言うわけにいかない。それが、柚果の出した結論だった。志穂が吉川に自死を誘導されたということを話せば、志穂の母をもっと傷つけることになる。
けれども、志穂の母は最初から、志穂の死の原因を解明したがっていたわけではなかった。ただ、志穂が悩みを相談できるような、親しくしていた相手を知りたいと言っていた。
「志穂さんのことが色々とわかりました」
柚果が両手を組み合わせた。
『柚果ちゃん!』
母の言葉に身体の力が抜けて、真っ暗な穴を覗きかけたあの時、背中をばちんと叩くように、力いっぱいの衝撃をくれた。
「志穂さんは」
目頭が熱くなる。声が詰まった。
「志穂さんは、いつだって自分よりも相手のことを優先できる、本当に優しい人でした」
『志穂ちゃんの方こそわたしの心配ばかりしてくれて───』
『志穂ちゃんは自分の話はあまりしないで、人の心配ばかりしている子だった』
星奈やさな恵から聞いた話を伝えると、志穂の母は涙をこぼした。柚果もそっと涙を拭う。
「ありがとうね、柚果ちゃん……」
志穂の母がそう言って、仏壇を振り返った。飾られている志穂の写真に目をやる。
柚果もつられて目をやると、写真の前に手紙が添えられているのが見えた。さっき線香をあげた時には気づかなかった。
「星奈ちゃんがね、月命日に来てくれるの」
柚果の視線に気づいた志穂の母が言った。
そうか、星奈が……。
柚果の心にぽっと明かりが灯った。志穂を偲んで涙を流す星奈を思い出す。
「今度、よかったら柚果ちゃんも来てね。星奈ちゃんとなら、きっと仲良くなれると思うの」
志穂の母が笑顔で言う。
そうか、月命日にここへ来ればいいんだ。学校ではないこの場所で、星奈とゆっくり話をすることができる。
その時はきっと志穂もいる。星奈と柚果が話しているところを、志穂が笑顔で見守っている光景が目に浮かぶような気がした。
家に帰り、階段を上ると弟が部屋から出てきた。柚果の顔をちらりと見ると、照れ隠しのように口を尖らせて、
「僕、明日から学校に行く」
と言った。柚果が目を瞠る。
『僕も、一緒にいじめたんだ』
病室のベッドで、そう言って涙を流していた弟の姿を思い出す。
「大丈夫なの」
柚果が尋ねると、
「わからないけど」
弟が不安そうに言った。けれども唇を結んで首を振り、
「逃げてないで、ちゃんと謝ろうと思う」
自分の罪に向き合う。そう決めた弟の顔は、少し大人びたような気がした。
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