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【小説】烏有へお還り 第37話

   第37話

 凍った雪に足を取られないように気をつけながら、雑木林の中を歩いた。日が当たっているところだけ、溶けた雪がシャーベットのようになっている。

 それもじきに、次の雪に覆われてしまうだろう。本格的な冬はこれからだ。

「寒くない?」
 和志の問いに、柚果が首を振る。体調は戻ったが、今日はしっかりと防寒対策をしてきた。

 あの日、屋上から下りて建物の外へ出たところで、和志を心配して探しに来た和志の祖父と行き会った。まだ頭を抱えている和志を支え、和志の祖父が車でかかりつけの病院へ連れて行った。

 検査の結果、異常なしだったことは、和志の祖父が教えてくれた。加工場の番号を調べて連絡した柚果に、

『和志の力になってくれてありがとう』

 巻き込んでしまったことを責めることなく、優しい声でそう言った───。

 手にしていた花を、大銀杏の根元に手向けた。和志と二人で線香を立て、手を合わせて目を瞑る。

 この場所で亡くなった吉川たち三人だけでなく、志穂のことを思った。それから、他にも吉川の誘いで自死してしまった人たち……。

 そっと目を開け、柚果は大銀杏に目をやった。さっき和志から『霊鎮めの銀杏』が神社から移植された経緯を聞いた。生涯学習会館の建設時に事故が相次いで、『祟り』だと噂されたことを。

 十年前にこの屋上から飛び降りた女子生徒が吉川の上に落下したことは、果たして本当に偶然だったのだろうか。そんな考えが浮かび、柚果の背中がすうっと寒くなる。上着の首元を重ね合わせた。

「決めたんだ」

 和志がぽつりと呟いた。線香の立ち上る煙をじっと見ている。

「俺、本格的に宮大工になるために修行する」

 そう言った和志は、これまでで一番すっきりした顔をしていた。柚果の視線を受けて、少し照れたように小さく笑う。

『あいつ、ヘンだよな』
『みんなと違う』
『おかしい』
『変』

 そんな雑音に苦しめられていた。けれどもそれを消せた原因は、皮肉にも、実際に人と違う環境に身を置いたことだった。異質だと言われることを怖がる気持ちが消えた。

 この仕事の奥深さをもっと知りたい。遥か昔から受け継がれてきたバトンを、未来へつなげる役割をしたい。

「自分なんかが宮大工になりたいなんて言ったら、笑われるって思ってた」

 学校から逃げた。その事実は、背負い続けてきた重い十字架だった。

 けれども、自分の進む道を自分で決めた今、どこまでも自由に羽ばたいていける気がする。

「本当に自分なんかになれるのか、今だって、自信なんてないけど」

 戦う前から怖がっていた。けれども、もう迷わない。

『宮大工になるのは難しいって知ってる。けれども俺、本気で目指したい』

 祖父には先週打ち明けた。返事が返ってくるまでの沈黙が怖くて、頭を深く下げたままぎゅっと目を瞑った。

『若い者が継承してくれるなら嬉しい』

 その声に顔を上げると、祖父は目を細めて頷いた。そして、春になったら遠方に住む祖父の知り合いの宮大工のところへ、弟子入りする算段をつけてくれた。

『広い世界で学んでこい』

 祖父が背中を押してくれる。両親は自分で説得した。母は最後まで不満そうだったが、最後は和志の気持ちを尊重してくれた。

「本当は今すぐにでも行きたいけど、でも一応まだ義務教育中だから」
 言いかけて、和志がふと気づいた。柚果の小鼻が凹んでいる。

「頑張ってね」
 精いっぱい笑って言ったのに、柚果の喉が詰まった。こんなところで泣いてはいけない。和志の決意を邪魔するわけにいかない。

「手紙、書いてもいいかな……」
 必死で涙を堪え、柚果がぱちぱちと瞬きをする。和志が笑った。

「それまでには、スマホ買うよ」
 学校に行けなくなってから、すべてを断ち切るつもりでスマホを手放した。けれども、今はつながりたい相手がいる。

「ちゃんと連絡する」
 和志が微笑む。柚果の泣きそうな顔を見ていると、ほんの少しだけ決心が揺らぎそうな気がした。

「時々帰ってくる。柚果に会いに」
 和志の言葉に、柚果が頷いた。そっと鼻を啜り上げる。

「わたしもね、やりたいこと見つかったの」

 さな恵のようになりたい。さな恵にもらった優しさを、同じように誰かに届けたい。

「だから、いっぱい勉強しようと思ってる」

 学校やマスコミが、自死の原因を「いじめ」一つに決めつけているうちは、若者の自死はなくならない。

「いじめ」は許せない。それは誰でも知っている。けれども、簡単に分類できない心の闇が、人を不安や絶望に陥れることもある。

 吉川は『じゃあ、またね』と言った。きっと、自分の人生に死を招き入れようとする人を嗅ぎ分け、また現れる。

「頑張れ」

 今度は和志が柚果に言った。和志が伸ばした手を掴む。手袋越しに温かさが伝わってくる。

 二人の足跡が、溶けた雪の上にどこまでも続いていった。

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