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【小説】烏有へお還り 第20話

   第20話

 帰宅したら、ガレージに母の車が停まっていた。試しにドアノブを回してみると、鍵はかかっておらず、すんなり開く。

「ただいま」
 奥に向かって声をかけ、ダイニングを覗いた。テーブルでいんげんの筋を取っていた母が顔を上げる。

「おかえり」
 その返事だけで、機嫌が悪そうなのがわかる。柚果は冷蔵庫を開け、お茶のボトルを取り出した。グラスに注ぐ。

「今日は仕事休みだったの」

 柚果の問いかけに、母はテーブルの上に顎を向けた。
「今日、大翔を連れてそこへ行ってきたの」

 視線の先にはパンフレットがあり、見慣れた建物の写真が載っていた。生涯学習会館だ。和志の顔を思い浮かべ、ドキッとする。

「これって」
 と言いかけて、
「この前、秀玄彫り体験で行ったところだよね」

 慎重に言葉を選んだ。母はため息混じりに、

「あの建物の中に、フリースクールが入ってるの」
 投げやりな口調だった。パンフレットを開くと、大翔と同じくらいの年齢の子供たちが笑顔で映る写真が目に入る。カリキュラムは学校の勉強とは違うようで、無料体験の案内がある。

「大翔、フリースクールに行くの?」
「教えられたから、見学にいっただけ」
 機嫌が悪いのはそのためだと合点がいく。

 担任とカウンセラーの先生が訪問に来てからひと月余りが経過してしまったが、弟の保健室登校はあまり実現できていないようだった。

 学校へ行かなくなってから、もう二箇月近く経っている。復学はまったくと言っていいほど進展していない。それどころか最近では、弟は食事の時間になっても部屋から出てこない日さえある。

 柚果はパンフレットを返すと、ボトルを冷蔵庫に戻した。使ったグラスをシンクに置いて立ち去ろうとした瞬間、母の鋭い声が飛んできた。

「グラスくらい自分で洗いなさいよ! こっちはご飯の支度してるんだから!」
 突然大声で怒鳴られ、柚果の腕がびくんと震える。母は乱暴に立ち上がると、

「ちょっとお茶飲んだくらいで、洗い物増やさないで!」
 と言って、柚果を押しのけるようにシンクの中のグラスをつかんだ。

「こうして水でゆすいでおけばいいでしょ!」
「自分でやるよ」
 柚果の声を無視したまま、母はグラスを洗って水きりかごに入れる。

「忙しいんだから洗い物増やさないでよ! あんた、中学生にもなってグラスも洗えないの!?」
「だから、自分でやるって言ったでしょ!」

 聞くに堪えずに遮った。母はむっとした顔になったが、なにも言い返さずに椅子に戻り、鼻息荒く豆の筋を取り始める。

 柚果は奥歯を噛みしめた。悔しさがこみあげる。しかし感情が高ぶるほど、言葉は喉に貼りついて出てこない。

 ダイニングを飛び出して階段を駆け上がった。部屋に飛び込み、制服のままベッドに突っ伏す。枕に顔を押し付けるが、意味のない呻り声しか出てこない。本物の怒りは、うまく言葉に変換できないことを思い知った。

 母は己の機嫌の悪さを、平気で人にぶつける。そして大概の場合、その相手は柚果だ。

 幼いころは母の理不尽な仕打ちに怯え、「ごめんなさい」と泣くだけだった。けれども中学生になり、母に背丈が近づいてきた頃から、母に対する憤りが胸の奥に巣食うようになった。

 もしシンクにグラスを置いたのが柚果ではなく大翔や父だったら、決してあんな言い方はしない。

 去年のことだが、突然の夕立ちに、小学校から帰宅していた弟が洗濯物を取り込んだことがあった。パートから戻った母は感激し、方々にそれを語って聞かせた。

『大翔がね、雨が降ってきたからって、気を利かせて洗濯物を取り込んでおいてくれたの!』
 わざわざ電話してまで祖母に報告する母に鼻白んだ。柚果に対する遠回しな当てこすりのようにも聞こえて、なおさら嫌な気持ちになる。

『そうよ、男の子なのに』
 という言葉にも引っかかりを感じた。もし柚果が同じことをしても、きっとそこまでの反応はしないだろう。

 沸騰していたはらわたが徐々に温度を下げる。落ち着きを取り戻してきたのと同時に、母への嫌悪が軽侮へと変わっていく。フリースクールを勧められたことに苛立つ母を、本当に愚かだと感じた。

 ことさらに世間体を気にする方が、かえってみっともないのだとわからないのか。もしその環境が弟に適しているのなら、たとえフリースクールであろうと恥じる必要はない。

 もし選べるのなら、自分だって学校とは違う居場所が欲しい。

『合わない職場なら、無理して続けることないよ。会社なんていくらでもあるんだからさ』

 ずっと以前、母の年の離れた弟が遊びに来たことがあった。仕事の悩みを相談された父が、酒を呑みながらそう言っていた。

「合わない」という理由だけで、別の居場所を自由に選び直す。その特権は、大人にしか許されない。

 ふと、どこかから音が響いていることに気づき、柚果は顔を上げた。ベッドから起き上がり、耳を澄ませる。

 音は壁の向こうから伝わってきているようだった。少しずつ耳が慣れてくる。誰かの話し声だ。弟の部屋から聞こえてくる。

 そっと立ち上がり、ドアを開けた。廊下から弟の部屋の様子を窺う。さっき帰宅した時の玄関を思い浮かべたが、客人の靴は並んでいなかった。

 ドアをノックする。返事は聞こえなかったが、ドアノブを回した。ベッドに腰かけていた弟が、驚いた様子で柚果に目を向ける。

「なにしてるの?」
 柚果が尋ねると、弟は片方の耳につけていたイヤホンを外した。

「別に。音楽聞いてただけ」
 部屋の中を見回す。弟の他には誰もいない。

「今、声が聞こえてきたけど、誰かと話してた?」
 柚果の問いに、弟が眉を寄せた。

「別に。独りごと」
 そう言って柚果に背を向ける。

「独りごと……」

『なんかね、独りごとを言ってたの』

 星奈が話していた、志穂の様子が蘇る。柚果の胸に、ざわざわとした不安が広がっていった。

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