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【小説】烏有へお還り 第24話

   第24話

 問題集に書きかけた数字を消しゴムで擦り、勉強机の上に転がした。ページの最後にある難問を解き終え、息をつく。

 柚果は大きく背伸びをした。椅子をわずかに後ろへ引き、固まった身体をほぐす。室内用のモコモコ靴下は、寒くなり始めてから買った新品だ。

 解答と照らし合わせ赤丸をつけると、柚果はペンを置いた。時計を見ると、もう十時を回っている。

 ノートを開いた。色のついたペンでチェックを入れてあるところは、

『ここ、ひょっとしたらテストに出るかもしれないよ』

 今日の午後の授業で、教師がそう言った箇所だ。生徒たちが慌ててノートにペンを走らせたことを思い出す。

 テストは明日から二日間。二週間前にテスト範囲が発表されてから、志穂の母に頼まれた調査はストップしている。和志のところにも顔を出していない。

 テストを終えたらまた聞き込みをしなければいけない。そう考えて、気が重くなった。カウンセラーのさな恵を訪ねた後、伊藤さんと野口さんにも、志穂が特に親しくしていた相手を教えて欲しいと尋ねた。二人は志穂と同じ小学校出身だ。

 柚果の質問に、二人はあからさまに表情を曇らせた。柚果が驚いていると、

『それ、みんなに聞きまわってるんだってね』

 野口さんが固い口調で言った。その言葉で、よからぬ噂が立っているということがわかる。

 誰が触れ回ったのか、思い当たる相手は少ない。柚果に向けた日菜子の目つきを思い出す。まさか星奈だとは思いたくない。

 数学の問題集を押しやると、他の教科のテキストを丁寧に見直した。明日の本番の前に、ほとんど仕上げてある。軽く確認をしたら終わらせるつもりだ。

 スマホの画面が明るくなり、画面の端に投稿された文字の一部が映った。さっきからクラスのグループのSNSが動いている。

『あーあ、早くテストが終わって冬休みになればいいのに』

 誰かの嘆きに、ふと夕飯の時の母が浮かんだ。

 今日はまた弟が食事に下りてこなかった。以前より頻度が上がってきたような気がする。

 夜中に空腹になった時のために、母はいつも弟のおかずを取り置き、ラップをかけて冷蔵庫へ入れておいた。けれども、朝になってもそのまま残されている。

 父の仕事が休みだったので、三人で食事をした。けれどもカレンダーに向かって大きなため息をつく母は機嫌が悪そうで、柚果も父も黙って黙々と食べ続けた。

 母の気鬱の原因は知っている。何日か前、

『ああ、お正月どうしよう』

 と呟いているのを聞いたからだ。

 年末年始は決まって、すぐ近くに住む母方の祖母の家に行くことになっている。

 母の実家は祖母の生家でもあり、祖父は婿養子だという。柚果が幼い頃には曾祖母がまだ生きていた。

 かつてはかなりの資産家で、戦後は規模が減ったものの、『御園家』は地元の名士であるという自負が強い。

『いつかこの御園の家を、ゆずちゃんかひろくんが継いでくれる?』

 母の年の離れた弟が結婚の予定さえないことを嘆き、祖母はたまにそんな冗談を言う。会えばいつも旅行のお土産やお小遣いをくれる祖母が、柚果はあまり好きではなかった。

『ゆずちゃんは可愛いんだし、素敵な人と結婚しないとね。お父さんなんかよりも』

 そんな風に、柚果に向かって父を貶める発言をする。父の実家を馬鹿にしており、そのくせ本人に向かっては、

『お仕事、忙しいんですってねえ。頑張っていて偉いわ』

 と、口当たりのいいことを言う。

『ゆずちゃんは成績がいいから楽しみね。お母さんなんか短大だったもの』

 母のことも貶める。そうなるとどれだけ褒められても、陰では悪く言われているのではないかと疑う気持ちになってしまう。

『そういう、悪口みたいなの、ちょっとやだな』

 小学生の時、思い切ってそう言ったことがある。一瞬真顔になった祖母に恐れを感じたが、

『ゆずちゃんは優しい子なのね』

 そう言ってにっこり笑ってくれた時は、ほっとした。それだけに、

『柚果より大翔の方が可愛いわ』
『あっちに似たんだろうね』

 祖母が母に向かってそう言っているのをこっそり聞いた時は、心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。

 母は祖母に、弟の不登校について打ち明けていない。年末が近づくことを恐れているのはそのためだ。

 ふと気づいた。母がことさら恐れている『世間体』とは、他人の評価ではなく───。

 スマホの画面が明るくなる。無視して別の教科を手に取ったが、画面の端には断続的にメッセージの一部が映し出された。次から次へと止まらない。

 不審に思い、画面を開いた。『なにこれ』『え、これ誰』『タバコ吸ってる』という文字の上に、一枚の写真があった。

 全身から汗が噴き出す。指の間に煙草を挟み、口元に近づけた姿。映っているのは間違いなく柚果だった。

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