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【縣青那の本棚】 ピルザダさんが食事に来たころ ジュンパ・ラヒリ 小川高義 訳

短編集『停電の夜に』に収載されている作品である。表題作に続く2話目の小説だ。

ボストンの大学で教鞭を取る父と、銀行窓口でパートタイムで働く母。二人の出身はインドのカルカッタ。
語り手である10歳の娘リリアはアメリカで生まれ、アメリカの教育を受けている。

アメリカ生活のもの寂しさから、大学便覧を調べては同郷らしきインド人の名を見つけて夕食に招待する習慣のあった両親が、1971年の秋に誘ったのが、ピルザダさんだった。

1971年といえば、パキスタンに内乱があった年である。

1947年、インドが長年に渡るイギリスの支配から独立を果たすと同時に、「清浄者の国を作る」としてイスラム教徒がインドから分離・独立し、パキスタンを建国した。
ところがパキスタンは地理的に二つの地域に分かれていた。広い土地を持つ西パキスタン、北部インドを挟んで飛び地のような状態になっている小さな東パキスタン。

パキスタンとバングラデシュ(旧東パキスタン)
の位置関係


ベンガル地方のムスリムによって構成された東パキスタンは、政治実権を握る西パキスタンの支配によって、植民地のような状態になっていた。
1970年に起きたサイクロン被害の時、救済に対する西パキスタンの中央政府の怠慢をきっかけに、東パキスタンの独立戦争が起こった。
西パキスタンがそれを制圧しようとすると、東パキスタンから多くの難民がインドに流入。ただでさえ貧しかったインドはそれを抱えきれず、東パキスタンを独立させるため介入を決定した。
圧倒的な人員の投入で戦争を有利に進めたインドに、地理的に主戦場から遠かった(補給に何と3000マイル=4828.02 km!)西パキスタンは敗北した。

ピルザダさんはまさにその年、東パキスタンにあるダッカ――のちのバングラデシュの首都――から来ていた。大学の植物学の講師で、二十年連れ添った奥さんとの間に6歳から16歳まで7人の娘がいて、ダッカに三階建ての家を持っていた。
ピルザダさんはちょうどニューイングランドの樹葉調査の為、パキスタンの国費でアメリカに滞在していた。春から秋にかけてヴァーモント州とメイン州でデータを集め、秋からは語り手の家族のいるボストンの北の大学に移って、調査結果をまとめようとしていた。
始めの頃、アメリカ生まれでアメリカ育ちのリリアは、ピルザダさんのことを何の気なしに「インドの人」と呼ぶ。アメリカの小学校の歴史の授業ではインド―パキスタンの分裂のことは教えない。学校で習うのは独立戦争以降のアメリカの歴史ばかりなので、インド人とイスラム教徒ムスリムであるパキスタン人の違いがわからないのだ。そのことを父親は嘆くが、ピルザダさんが気を悪くしないよう配慮して、娘にその違いをきっちり教えた。

毎日、ピルザダさんは6時にやって来て一緒に夕飯を食べた。いつもすきのないスーツ姿で、オリーブ色のジャケットを着て、絹のネクタイを結んでいた。偏平足の蟹股がにまたで、白髪まじりの髪がはらりと耳にかかっていた。睫毛まつげが濃く、小柄で、たっぷり生やした口ひげの先が愉快げに上を向いていて、いつも黒いウールのトルコ帽をかぶっていた。
そしてピルザダさんは、リリアに毎回違うお菓子を持ってきてくれるのだった。
食事の後、皆で全国ニュースを見た。テレビの無い大学の院生の寮に寝起きしているピルザダさんは、毎日パキスタンの情勢を知る為にこの家に来て食事をするのだ。毎週妻に手紙を書いていたが、半年前から消息が届かなくなっていた。
妻と、7人の娘達の生死も知れない。どれほど心細いことだろう。
テレビのニュースには、東パキスタンでの混乱が映し出される。埃っぽい街路を推し進む戦車隊、倒壊したビル、見慣れない木々の森。その森へ流れ込み、危険を逃れてインド国境を越えようとしている東パキスタンの難民達……。

ピルザダさんのほうを見ると、その目の中にミニチュアの映像がちらついていた。テレビを見るピルザダさんに、ある不動の表情があった。沈着だが神経は張りつめている。あてもない目的地への道順を聞くような顔とでもいおうか。

ピルザダさんが食事に来たころ ジュンパ・ラヒリ 小川高義 訳


ニュースで見たような場所に、ピルザダさんの奥さんや7人の娘さん達もいるのかと思うといたたまれなくなったリリアは、毎晩寝る前に食べていたお菓子に彼女達が無事であるようにという祈りを込め始める。〝歯を磨いたらお祈りまで口から流れてしまいそうな気がして〟、お菓子を食べた後歯を磨かないことにした。
思わず虫歯のリスクが心配になるが、それは彼女なりに真剣に考えた子供らしい純粋な祈りなのである。

……ピルザダさんが訪ねて来て、家族とともに食事をし、ニュースを見る。その後リリアが寝る為に二階に上げられると、両親とピルザダさんはカセットで歌を聴いて、スクラブルをやったりして夜更かしした。11時のニュースを見てから、ピルザダさんは真夜中頃帰っていった。
そんな日々が続いた。

やがてハロウィンの時期になり、ピルザダさんと一緒にカボチャのランタンを作った。
ハロウィンの晩、インドとパキスタンがいよいよ緊迫の度を増しているというニュースが流れる。戦争が始まれば、戦火にまみれるのは東パキスタンだ。
12月4日に宣戦布告があり、インドとパキスタンの戦争が始まった。のちに〝第三次印パ戦争〟と呼ばれることになるその戦争は、結局12日後、パキスタン軍の敗北で幕を下ろした。

だが結果がわかるまでは、何もかもがあやふやだった。

その12日間、リリアの家は異常な緊張に包まれていた。
その間、父はニュースを見ようと言わなかったし、ピルザダさんはお菓子を持ってこなくなり、母は夕食にライスとゆで卵しか出さなかった。両親は時々、ピルザダさんを家に泊めた。

ただ、何より強かった印象をいうなら、あの時期、あの三人が、まるで一人の人間になったように、食事も、身体も、沈黙も、恐怖感も、ぴったりそろっていたことだ。

ピルザダさんが食事に来たころ ジュンパ・ラヒリ 小川高義 訳


それほど、その家にいる大人達は、地球の裏側の東パキスタンで起きていることに心を馳せ、恐怖と祈る気持ちでいっぱいになっていたのだろう。


年が明けて1月に、ピルザダさんはダッカに帰っていった。
その後音信不通だったが、何ヶ月か経って、イスラム暦の新年を祝うカードが届き、ピルザダさんの妻も娘達も皆、妻の祖父母の家に疎開していて無事だったということがわかる。
ピルザダさんからの感謝に満ちたメッセージに両親は喜んでお祝いをするが、リリアはお祝い気分になれなかった。

リリアは〝この時初めてピルザダさんがいないことを噛みしめた〟のである。もう随分前から顔を合わせていなかったというのに。

何ヶ月もの間、ピルザダさんが妻や娘達に対して抱いていた〝はるかに遠い人を思う〟という感覚を、この瞬間リリアは初めて知った。

10歳の少女の心の成長の瞬間に、〝あっ〟と明るい驚きと感動を覚えたことが印象的だった。

もう来るはずのない人だった。また会うこともなかろうねと父母は言い、そのとおりになった。一月以来、毎晩寝る前に、わたしはピルザダさんの家族の無事を念じて、とっておいたハロウィーンのキャンディーを一つずつ食べることにしていた。この夜は食べなくてもよかった。やがてみんな捨ててしまった。

ピルザダさんが食事に来たころ ジュンパ・ラヒリ 小川高義 訳


小さい子供の頃に、こうした触れ合いをしたおじさんというのは、二度と会わないとしても生涯忘れ得るものではないのだろうな……と、じんわりと温かい読後感が残った。

短編集『停電の夜に』の中で一番好きな作品だ。

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