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「パリに暮らして」 第6話

 ――その週は、秋のパリにしては珍しく、暖かい日が続いていた。この時期のヨーロッパの平均気温は十七℃、明け方など一日の内で最も気温が低くなる時間帯には、平気で氷点下まで下がる。
 ところがどういう訳か、その週だけは、天の恩恵のように、連日午後には気温は二十℃を越え、陽光が街に優しく降り注ぎ、通りや公園のパリッ子たちは喜び勇んで肌を露出させた。
 水曜日、私はモンマルトルにある柊二さんの仕事場を訪ねた。一度見においでと言われ、興味津々だったのだが、学校の時間の都合でなかなか訪ねられずにいたのだった。ところが今日は、クラスの担任であるマダム・クリスティーヌが風邪をひいてしまったということで、急遽授業が休みになった。私はこれ幸いにと、早々に学校を後にして、柊二さんのところへ向かった。

 モンマルトルは、幾重にも階段の連なる坂の街で、通りの左右には互いによく似た石造りの建物がずらりと並び、沢山の観光客の往来の中で、風景画の絵葉書を売っていたり、似顔絵描きが画架を広げたりしている光景が見られた。ひと際高い丘の上にそびえ立つのは、サクレ・クール寺院。フランス革命の際、パリ・コミューンのもとに蜂起して犠牲になったパリ市民をとむらう為に建てられたという。この壮麗な建築物が、自由を勝ち取る為に命を落とした人々の鎮魂の為に建てられたという事実を、私はここに立つまで知らなかった。それは言わば、パリ市民に現代まで受け継がれる反骨精神の象徴でもあるのだった。

 ……二十数年前、美術名鑑を紐解きながら、一丁前に、この界隈に住んだ画家たちに想いを馳せたことを思い出した。不思議なことだけれど、柊二さんに誘ってもらってこの地区に足を踏み入れるまで、私はそのことをすっかり忘れていた。 〝モンマルトル〟、この言葉の響きに、ある種の郷愁を覚えても良さそうなものだったのに……。
 人間って、こんなに変わってしまうものだろうか。以前あんなに興味を持っていたものにも心かれなくなってしまっている自分に気づいて、何とも言えない哀しさを覚えた。……何がとははっきりと言えないけれど、あの頃と今を隔てる人生のいつかの時点で、確実に何かが自分を変えてしまったのだ。今はこういった風景を眺めながら歩いても、何の感慨も起こらなかった。
 ずっと大切にしていた宝物をもぎ取られてしまったような気分で、ただ、柊二さんがメモしてくれた数字に合致する番地を探して私は歩いた。そして、ようやくそれを見つけることに成功した。
 
 
 ――木製だが、黒く塗られている為に重厚な鉄でできているように見える扉が開いて、柊二さんが出て来た時、正直私はほっとした。喪失感のようなものにさいなまれ始めていた私の心は、柊二さんの存在によって少し慰められたような気がした。
「やあ、よく来たね」
 連絡もせず急に押しかけた私に迷惑そうな顔ひとつせず、にこやかに中へ入るよううながしてくれる。そういう鷹揚おうようなところが柊二さんにはあった。
 大きな扉を押して中に入ると、空気が冷んやりとしていた。今日のパリの街の陽気を思うと、ひどくギャップがあるように感じられた。

 そこは個人宅を改装したギャラリーになっていて、私達のいる小さな玄関ホールは全面落ち着いた紺色で統一され、その壁にもすでに何点かの絵画作品がかかっていた。ワックスで磨かれてぴかぴか光る木製の床は歩く度にギシギシ音を立てた。
「古い建物を改築して住んでいたんだ」
 柊二さんが言った。
「住んでいた……?」
 私が問うと、
「そう。ここのオーナーはもう亡くなっているんだよ。僕は勝手に、〝故人の美術館〟て呼んでるんだけどね。その娘さんから委託されて、管理を手伝っているんだ」
 柊二さんは答えた。

 ジュヌヴィエーヴ・ペランというその女性は、七十余年の生涯をかけて美術品を集めた。その全てが絵画作品であり、そのほとんどは今私達がいるこの家の中に保管されている。展示されているものもあり、されていないものもある。ジュヌヴィエーヴが存命中にこの小さな美術館はでき上がっていたのだが、芸術家の卵達が多く暮らしていたこの界隈で、当時この場所は話題に上ることもなかった。
「その理由はね……、わかるかい?」
 くすっと笑って柊二さんは言った。
 今私達は、奥へ続く廊下を通ってキッチンの方へ向かっていた。その道すがらも、壁じゅうに等間隔で沢山の絵画が並んでいる。私はこの建物に入って来た時から何となく感じていた違和感に気づいた。
 それは、“既視感|《デジャ・ヴュ》”と呼ばれるものだった。そこに並んでいる絵画達は、時代順に並べられているわけでもなくカテゴリーごとにまとめられているわけでもなく、誰かが気まぐれにポンポンと置いていったもののように適当に配置されているようだったけれど、私はその全部に見覚えがあった。例えば今私の真横に掛けられている油絵は、コローの『モルトフォンテーヌの思い出』だったし、反対側の壁のはす向かいにあるのは、見間違いようもなくドガの『踊り子』……。ルーブルやオルセーなどの名だたる美術館に展示されていなければならないはずの名画が、なぜこのモンマルトルの片隅の一軒家に集結しているのだろう? 変な気分になって、私は答えを求めるように柊二さんを見た。
「わからないだろ? でも、皆がわかっているからこそ、ここが存続できているんだ」
 柊二さんは、煙に巻くような、なぞなぞ遊びのような言い方をした。ますますわからなくて首をかしげていると、柊二さんは、自分が根負けをしたように吹き出して笑った。そして続けて、こう言った。
「ここにある絵はね、全部〝複製〟なんだよ」
 見る人が見れば、すぐにわかるのだという。だが私のような素人にはわかるはずもなく、すわ本物かと、騙されてしまうところだった。
 でも本当に、素人目ではあるが、色彩や筆のタッチは本物の画家のものよろしく、精巧に模倣されていて、複製であるという色眼鏡で見なければ、芸術品として十分目に訴えるものを持っているのだった。そしてそこにも理由があった。
 マダム・ジュヌヴィエーヴ・ペランが生きていた頃、彼女の周りには芸術家の友人が沢山いた。彼女は結婚して一女をもうけた後、離婚して、不動産の投資でひとかどの富を築くことになるのだが、それよりも以前から画家を志す数多くの友人達との良き交流があった。成功し富豪となってからは、まだ芽の出ない友人達を経済的に援助するようになった。彼女は彼らが生活の為や練習用に描いた名画の複製を、言い値で買い取っていたという。要するに〝パトロン〟ということだが、事実、彼女ほどの真のパトロンはいなかったと言ってもよい。なぜなら彼女はその古い友人達の才能に惚れ込み、彼らの目指す芸術を深く理解し、愛していたからだ。友達を養ってやってるんじゃない、これは〝投資〟だ、と、娘のリザにいつも言って聞かせていたという。そして、この家をモンマルトルに買った時、友人達から買い取ったその複製の絵を、自らも自宅として住み始めたその家に飾り始めた。その数は年々増えていき、それと同時に友人の画家達のオリジナルの作品も段々と世に認められるようになっていった。そして今この家は、有名無名を問わず、マダム・ペランの愛した画家達の作品であふれ返っているという。基本的に、何をどこに展示するかというのは、相続人である娘のリザが決める。名を上げた友人達のオリジナルの作品は、ここには置かず、公共のギャラリーや美術館にレンタルという形で展示してあり、その他のものは銀行の貸し倉庫に納めてあるのだそうだ。従って今この家にあるのは世界の名画の複製だけ、ということになるが、それでもジュヌヴィエーヴの友人の画家達が有名になった今、面白いことに、これから画家を目指すという若者や美大の学生などが見学に来るようになった。最初は少数だったが、口コミで広がったようで段々増えてきたので入場料を取るようにした。それでもその数は、年々増えていっているのだという。
 「……ふーん……。そんなことってあるのね。すごいなあ……」
 私は感心していた。この家中に常設展示されてある複製の絵画達が、かつて無名の画家志望だった若者達によって練習の為に描かれ、時代を経て今画家を志望する新たな若者達の研鑽けんさんの対象になっているということは、とても興味深かった。これもひとえに、ここモンマルトルに居を構え、つい棲家すみかとしてこの場所を作り上げたマダム・ジュヌヴィエーヴ・ペランの功績だ。

「素晴らしい人ね、マダム・ペランって」
 私がそう言った時、玄関の重い扉を乱暴に開く音がして、また無造作にバタンと閉まった。私達はすでに台所に入っていて、柊二さんがコーヒーを入れる支度をしているところだったが、その人物は足音も高らかに、廊下のきしみなどものともせぬ勢いで、ドスドスとこちらに近づいてきた。
「現役のマダム・ペランの登場だよ」
 柊二さんは私に向かって舌を出して言った。
 廊下の途中で携帯電話が鳴り、応答する気配がして、足音は途絶えた。二、三、フランス語で何か言っている声が聞こえ、後は電話の向こう側の相手が話しているらしく、気がかりな沈黙が続いた。
「彼女がジュヌヴィエーヴの娘だ。リザ・ペラン。僕の雇い主」 
 そう言う柊二さんの口尻は上がっていた。まるで何かを楽しむように。謎めいた笑いだった。それが、私に何かを気づかせようとしているのか、それとも私から〝何か〟を隠す為のポーズ・・・なのか、その時私にはわからなかった。
 
 電話を終えて、その女性は再び足音高く歩を進め、台所に入ってきた。
 透き通るように白い肌を持ち、呆れるほど明るい、もはや白に近いような色の金髪と、空の青を映したようなブルーの瞳を持つ女性が、台所の入り口に立っていた。彼女の姿は、まるで妖精……とでも言いたいところだったが、残念ながらそうではなく、長年積み重ねてきたのであろう個人的な沢山の問題のせいで、その容姿の輝きはすっかり衰え、その無表情でけんのある冷たい目つきは、彼女がかつて本当に妖精のようであっただろう時代を、確実に遠い過去の遺物にしているといった感じだった。
 ――勿体ない。彼女の人生に、これまで一体何があったというのだろう――?
 私がその時咄嗟とっさに思ったのは、こういうことだった。
 リザは、ちょうど私の真正面に立っていた。無言のまま、たっぷり三秒ほど私を見つめてから、つかつかと柊二さんの方に歩み寄り、私には背を向ける格好で、小声で何か問いかけていた。柊二さんは肩をすくめて何か返答したが、その答えは彼女の気に入るものではなかったらしく、途端に短くて冷たい、詰問口調になった。
 私は、徐々に、居心地の悪さを感じ始めていた。今私の存在が、リザ・ペランの柊二さんに対する態度を硬化させる原因になっていることは明白だった。

 ということは、二人は恋人同士なのだろうか?

 突然緊迫した雰囲気になった部屋の空気に耐えられず、私は一歩下がって目を閉じた。目を閉じると、柊二さんとリザのやり取りが前よりよく聞こえてくる気がした。リザはpourquoiなぜ pourquoiなぜpourquoiなぜという言葉を多用し、どんどん強くなる語調で柊二さんを責めていた。なぜ、こんなことをするの? なぜ、私を苦しめるの? とリザは言った。柊二さんはというと、努めて冷静に、今の状況を説明しようとしているようだった。けれどリザの詰め寄り方があまりにも強くしつこいので、しまいにはカッとなって声を荒げてしまった。
「やめてくれ! だからもう君とは駄目だって言ってるんだ!」
 
 私はいたたまれなくなって、部屋を出た。

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