はじめに人の一生を80年と考えるとちょうど折り返し地点の40歳の年、私はひとりのカウンセラーに出会いました。 その出会いは、私の今までの常識を覆し、生き方を劇的に変えるものでした。 生きる意味を見失い、ただ辛い毎日をやり過ごしていた私に、幸せに生きる方法を教えてくれたのです。その方法を学び、理解して身につけるまで二年かかりました。 私は今、自信と夢と希望を持って毎日を過ごしています。 それまでは20代〜30代にかけて鬱病、双極性障害、不眠症、不安症、過食嘔吐で心療内科に7
子供が小さい頃から「傘を買うときは明るい色で華やかな物を買いましょう」と決めていた。 雨の日は曇っているし、車から歩行者が見えにくい。黒やグレー、ネイビーの傘だと見えづらく事故に巻き込まれる可能性が増えてしまう。 いつもは地味な色合いばかりの服を着ているが明るい色の傘をもつ”理由”が出来た。 いつも花柄の傘を買う。白地に赤のガーベラだったり、黄色の生地にグレーの百合が線で描かれていたり。雨の日に玄関を出て傘を開くと暗い空にパア!と花が咲いた様に見える。 可愛い傘をさし
noteを書く事で私はある期待をしていた。 トラウマを思い出し整理して書くと言うことで”癒される”のでは無いかと思っていた。 ところが書き出したら今まで蓋をしてきたくさいものが吹き出し怒りや悲しみを、たくさん感じ直す事となってしまった。 少し鬱っぽくなってしまった。 書いて書いて、書きまくったらすっきりするのかな? 本当は私は笑えるエッセイを描きた。 さくらももこさんに憧れている。人を楽しませる文章を書けるって素敵だなと思う。 私が今描けるのは苦しいことばかりだ。
私は祖母に「誰にでも優しく接しなさい」と言われて育った。 祖母は私に優しくなかった。いつも命令口調で反論すると「子供が大人に意見するなんて生意気だ」と言って叩かれた。 優しさが無い祖母に「優しくある」事を望まれた。 それって祖母自身に都合が良い人間として、育て上げたかっただけじゃないかと思う。 その事に気づいたのは2年前。それまで私は”優しい人”で通っていた。 と、思っていたのは自分だけ。 優しくいなければいけないと言う呪縛により私はみんなにとって”都合のいい人”
20才の時だった。 私はバスに乗っていた。揺られる車内でカシャンと後ろの席から音がした。それと同時に「アッ!」と、呟く女性の声。 足に何かが当たった。下を向くとシャネルのファンデーションが落ちていた。拾いあげ窓と座席の隙間から「はい」と渡した。 「あ!ありがとうございます」 ニッコリと微笑んだ顔が見えた。その顔に見覚えがあった。 同じ中学校のひとつ年下の後輩だった。 足に転がってきたファンデーションがシャネルだったので、てっきり30代の大人の女性かと思っていた。
高校生の頃から短編小説やエッセイの公募を見つけては応募していた。それは唯一の趣味だった。 自分の思いを文章に乗せ応募する。かかるお金は封書と切手代という安上がりが趣味だった。 私の頭の中はいつもこんがらがっていた。自分を確立させようと文章を書いていたのかもしれない。 家では両親、祖父母の考えを押し付けられ、違う意見を言えば罵倒され、時に叩かれた。学校でも居心地の悪さをいつも感じていた。でもひとりになるのが怖くて無理やり周りに合わせて笑ったり、同じものを好きだと言って騒い
結構、不幸な人生だった。 カウセリングに2年通った。そのおかげで今は、自分らしく生きれるようになってきた。 その前には心療内科に7年通った。そこでも1年間だけカウセリングをした。病院は病気を治す目的なので悪くなった体調を元に戻すだけだ。もともと人生の底い位置にいた私はドン底から元の位置に這い上がっただけ。悪い環境を変える方法も教えてくれる訳ではないので底辺、ドン底を行ったり来たりの繰り返しをしていた。 植物が好きだったので部屋に必ず1〜2個は置いていた。2年前まではよく
私は今、40代前半。ようやくここまで歳を取ったって感じだ。私は早く歳を取りたかった。一度、自殺未遂をして死ねなかった。寿命を待つことにした。 よく「子供の頃に戻りたい」「高校生に戻りたい」など聞くが私は一年たりとも後戻りをしたくな。 私は家族が嫌いだったし、学校の先生も嫌いだった。結婚した夫も憎しみあって終わった。友達も・・・ほぼ縁を切った。 私は20才の頃から15年間、週4〜6回学校の夢を見ていた。 夢の中で制服を着ていることに焦るところから始まる。 「この制服は
離婚するのは大変なことだ。よく結婚よりも何十倍も大変だと言うが本当にその通りだった。 離婚の理由というのは多分、一つではないはずだ。いろんな理由があってそれらが積み重なっていく。そして最後にひとつ決定打があるのだと思う。 私はそうだった。離婚したい理由はたくさんあった。 束縛、お金の使い方、育児をしない、ギャンブル、暴言、価値観の違い・・・本当にたくさんだった。 味覚障害になったりうつ病になったりと大変だった。それでも頑張って結婚生活を続けていた。 でもある日、決定
友達に不本意なことを言われて心がかき乱されてしまったとき。 家族に自分自身のあり方を否定されてしまったとき。 職場の人間関係がうまくいかず辞めたいと思ったとき。 心を落ち着かせ踏ん張る力を言葉達にもらってきた。小説だったり、著名人の名言だったり歌だったり・・・ 音楽に乗って耳から流れるように入って心に響く歌には一番救われてきた。 10歳の時、ブルーハーツの情熱の薔薇を初めて聞いた。家で音楽番組なんて見たことなかった。クラスの男の子たちが歌っているのを聞いたのが初めて
小さい頃から叩かれる事は当たり前だった。外出先でも怒鳴られ、罵られた。日常的な出来事は、異常性に気づきにくい。それらが虐待だと分からなかった。 小学生の頃、チック症や不安症、強迫性障害だったことも大人になって知った。 繰り返される変な癖(チック)に「目障り」だと父に叩かれた。そして 「大人ぶってるつもりか?」と笑われた。 子供は生まない・・・そう決めたのは10歳の時だった。結婚もしない!と思ったが当時、好きだった男の子が頭に浮かんだ。うーん、結婚はしたいかも! でも、
私、ネガティヴなんです。 小心者で常にビクビクして周りを気にしてしまいます。ブログを始めてみたものの私の書いた物を見て不快に思ったり馬鹿にされたりするではないか?と心配になります。 じゃあ、書かなきゃいいじゃんって話になりますが、文章を書くことだけは好きで続けてきました。今は誰かが認めなくても自分で発信しさえすれば、人に読んでもらえます。 町で一番安くコピー出来る写真屋さんで大量の原稿を刷っていた私には、夢の様な話です。 MacBook Proを購入した時、とんでもな
何気ない事だった。 学校の帰り道、電信柱を横切る時にサッ、と手を出して柱に触る様になっていた。 触ろうと思った時に向かいから人が歩いて来て電信柱に触れない時があった。 触れなかったな・・・と思いながら歩みを進めたが肩が急に凝った様な感覚が襲って来た。肩が重くなってしきりに落ち着きがなくなった。何だろう、変だ。と思うけど原因は分からない。何度も肩を上下に動かしたり、首を左右にゴキゴキと動かした。歩けないくらい肩が凝って不快感でいっぱいになった時、急に 電信柱が気になった。
私は9才で肩が凝る様な感覚に襲われる様になった。 肩がダルくてたまらなくて肩をよく動かして骨をコキコキと鳴らす様になった。そのうちに肩を動かさずにはいられなくなった。 右肩をカクッと上にあげ、首を右斜め下に向かってゴキっ!と下げていた。ビートたけしさんが事故に遭い、その後この行動をする様になった時、驚いた。昔の私の癖と同じものだったからだ。 大人になるまで癖だと思っていた。 大人になって癖ではなくチック症だと言う病気だと知って愕然とした。 友達に不気味がられ、先生に
授業中だった。 あ〜あ、つまんない!こんな事して何になるんだろう?馬鹿みたい。 そう心の中で呟いた。するとふと不安が襲って来た。私今、声に出して言ってないよね?ちゃんと心の中でいったよね? 周りをキョロキョロと見渡した。みんな黒板の文字をノートに写していた。 大丈夫。心の中で言ったはずだ。そうじゃ無かったら先生に注意されているはずだもん。でも、 ・・・・・心の中の声がみんなに聞こえてたらどうしよう。みんな知らないふりをしてるだけなのかな? 授業が終わり私は後ろの席
先日の話だ。夜の7時、実家の母から電話があった。 「宮本のりこ(仮名)って知ってる?」 ケータイを持つ手が震えた。5年前に縁を切った女友達だ。 「その子がどうしたの?」 「今さっき、男が二人やってきてね”宮本のりこの友達なんですけど、詩織さんいますか?”って言って来たから、その子が誰か分からないし、”詩織とは別々に住んでいるのでここにはいません”って言ったら帰っていったよ」 「どんな男?」 「んー、あまり覚えてない。なんかちょっと怖かったよ」 背中がゾクっとした