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「家族いじめ」
はじめに
人の一生を80年と考えるとちょうど折り返し地点の40歳の年、私はひとりのカウンセラーに出会いました。
その出会いは、私の今までの常識を覆し、生き方を劇的に変えるものでした。
生きる意味を見失い、ただ辛い毎日をやり過ごしていた私に、幸せに生きる方法を教えてくれたのです。その方法を学び、理解して身につけるまで二年かかりました。
私は今、自信と夢と希望を持って毎日を過ごしています。
それまでは20代〜30代にかけて鬱病、双極性障害、不眠症、不安症、過食嘔吐で心療内科に7年間通っていました。主に薬物療法での治療でしたが1年間だけカウセリングを受けました。
双極性障害は改善されたものの不眠症、不安症、過食嘔吐は良くなるどころか酷くなる一方でした。いつも不安と焦りと、うまくいかない人間関係に悩まされていました。
感情が乏しく、意思の無い私は周りの人達から、都合の良い存在として扱われてきました。家族からだったり、友人や職場の同僚だったり、ご近所さんからもです。
その苦痛は幼い頃から”日常”として存在し、知らぬ間に私を蝕んでいきました。
小学2年生の終わり頃から不安症が始まり、チック症、強迫性障害を発症していきいました。
とても辛かったし、キツイ状況でした。でも、その苦しみが ”人生” だと思っていました。
”生きると言う事は、そういうものなんだ”
と、小学校時代からすでに諦めの境地に居ました。
物事が上手くいかないのは当たり前。私の話を真剣に聞いてくれないのも当たり前。辛いことがあって相談をしても「くだらない」と馬鹿にされ笑われる事も、その内容を大勢の人に暴露される事も普通の事だとして捉えていました。
そんな私を大切にしてくれない行為は小さい頃から当たり前に、空気のように存在していたからです。
我慢する事で平常心を保とうとしました。辛い事も平気なフリをしていました。「私は傷付いてなんかいない」心を鈍感にさせていったのです。
「自分を押し殺し相手に尽くす」それが最善の方法だと信じてきました。相手に尽くす行為もやらされているんじゃない、私が好んで自らやっているのだと思い込み自尊心を保ってきました。
私がそうする事を家族も友達も望んでいました。私は、自由に振る舞う彼らを見て「羨ましいな・・」と感じていました。そして、こう思っていたのです。
「私と彼らは違うんだ」
”私は言う事を聞く側の人間” であり、彼らは ”言う事を聞かせる側” の人間なのだ、と。
自然とそんな考えになっていったのです。
その思考にしたのは紛れもなく「家族」です。
一緒に暮らしていた祖父母も父も母も肉体的暴力や暴言、存在を無視する事、人前で恥を晒す事、大切な物を壊す事で私には権限が無いと思い込ませてきました。
このような支配をする親を近年「毒親」と呼び話題になりました。
「虐待」をもっと身近な物にしてくれた言葉だと感じました。
27歳の時、私の受けてきた行為は虐待であると心療内科の医師に言われた時、「やっぱりそうだったのか・・・」と、どこか人事のように感じました。
何かがおかしいとずっと家庭に不満を抱えていたのは事実で、18歳から親子問題の本を読み漁りました。自分は虐待を受けていたのではないか?そう、確信を持ち始めた21歳の頃、その胸の内を友人に打ち明けました。
言うべきか悩みました。でももう、”虐待を受けていた”と言う悲し過ぎる事実を一人で、抱えきれなくなっていました。傷付いた思いを誰かに聞いて欲しかったのです。
その時、友達だと信じていた相手に、一つ一つ言葉を選び慎重に話しました。
辛かった思い出が蘇り、涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら・・・。
話の途中で友人は「フッ・・!」と笑ました。そしてこう言ったのです。
「今、生きてるじゃん。死んでないよね?」
「虐待」と言うとニュースになるような事件・・・死かそのスレスレのものでないと “身近な人” に起こった場合、認められないんだ。と思いました。
その証拠に「そんなのは虐待では無い大袈裟だ。死んでないんだもん!」と、言われました。
「その程度ならみんな体験してる。自分だけ辛い思いしてるなんて、思い上がりだよ。悲劇のヒロインだね」
友人の言葉は、親に傷つけられて辛い思いをしてきた私を、更に暗闇に追い込むものでした。私の心の痛みを軽く扱われ、どうでもいいと言われたのですから。
殴られた痛さ、無視された虚しさ、みんなの前で恥を晒された悔しさ、大切な物を壊される悲しさ、それら全てを”私の為にやった”と、言われる矛盾さ、、、虐待じゃ無いと言うならば何?
人権を無視し攻撃する・・・学校で行われる”いじめ”と同じだと思いました。
いじめを私は家族から受けていたのです。家庭という一番、密な場所で養育者の立場の人からされていたのです。
それが「家族いじめ」です。
このブログを書くにあたって私が一番伝えたい事は、
「”愛” が何かを知って欲しい」と言う事です。
叩かれ、罵倒され、無視され、恥をかかされる事はとても辛い事です。
その堪らなく辛かった出来事を両親は「愛」だと教え込みました。「私を愛しているからこそ、そうやってきたのだ」と言いました。
これは両親が私に犯した最大の罪だと思っています。
私は40歳でカウンセリングを受け始めるまで、「愛する」と言う事は、
”暴言や暴力で相手を支配する事” だと信じてきました。
だから親と似たような性質の、私を虐げる暴力的な人を友達や恋人として選んできました。
私の事を心配し、優しく見守り、愛してくれていた人たちを、”変な人” だと煙たがり敬遠していました。
私は ”愛” を知らない大人になってしまっていたのです。
両親の暴力や暴言、無視は愛では無いとカウンセラーに教えられた時、いつも私を心配し声をかけて見守っていてくれた存在が居たことにも気付かされました。
離れて暮らしていた祖父と大叔母です。
幼い日、祖父や大叔母は私をよく抱きしめてくれました。
優しい眼差しや心がこもった言葉をかけてくれました。でも優しさを知らない私は、二人の発する「愛」に恐怖を感じ、包み込んでくれていた腕からよく逃げ出していました。
そして二人を変な大人だと思っていました。
今もし・・・願いが叶うなら、抱きしめてくれたあの日に戻りたいです。
二人の愛にようやく気づけたのに祖父と大叔母は、もうこの世には居ません。
二人の愛を感じたい。
「愛してくれていたことに気づけなくてごめんなさい」と謝りたい。
そして心から「愛してくれてありがとう」と伝えたいです。
もう一度・・・、もう一度しっかりと抱きしめて欲しい。
そしたら今度は、私も抱きしめ返すから・・・。
叶う事のない夢です。私の人生で一番、悔やまれるモノとなりました。
私はこれまでの過去を辛いままで終わらせないと決めました。
私は自分の手で過去を価値あるものに変えていくと決心したのです。
カウンセラーのお陰で私は ”愛” を知りました。
私にも、自分らしく好きな事をして人生を楽しむ権利があると知りました。
欲しいものを手に入れていいんだと言う事も知りました。
ずっと子供の頃、夏祭りでクラスのみんながアイスクリームを食べている中、親の独断で一人だけ食べさてもらえなかったあの日のままに、私は「欲しいものは手に入らない」と信じてきました。
そんな私が42歳になり、自分の人生をどう舵取りするか模索し始めました。私の望む幸せの探求もしています。
望むものや選択肢があると言う事はとても幸せでワクワクします。
その一つがこのブログです。
幼少期から家族にいじめられ、小学校ではチック症、不安症、強迫性障害に悩まされ、中学で自殺未遂、・・・鬱病、双極性障害、不眠症、過食嘔吐、それでも親の言う事を聞き続けてきた40年を書いていきたいと思います。
自分らしくいる為に・・・幸せになる為に・・・、そんな事を考えるきっかけになるといいなと思っています。
これから一緒に同じ時間を共有できたら嬉しいです。
八木原 詩織
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