文章を書くことを馬鹿にされ
高校生の頃から短編小説やエッセイの公募を見つけては応募していた。それは唯一の趣味だった。
自分の思いを文章に乗せ応募する。かかるお金は封書と切手代という安上がりが趣味だった。
私の頭の中はいつもこんがらがっていた。自分を確立させようと文章を書いていたのかもしれない。
家では両親、祖父母の考えを押し付けられ、違う意見を言えば罵倒され、時に叩かれた。学校でも居心地の悪さをいつも感じていた。でもひとりになるのが怖くて無理やり周りに合わせて笑ったり、同じものを好きだと言って騒いでいた。好きでも無いアーテイストのライブに行ったり、好きでも無いハリウッド俳優の映画によく行っていた。
今考えると無理していたことは”友達”にバレていたと思う。
”友達”は、私をなんでも同調してくれて自分のお金のかかる趣味に付き合ってくれる便利な人だと思っていた様だ。
大人になった時、”友達”に、自分の意見を言ったり自己主張をする様になると、あからさまに嫌な顔をされた。
「あなたはそんな子じゃ無いでしょう?」
と、今まで通りのなんでも言いなりになっている関係性を求められた。
そんなフェアじゃ無い関係性に嫌気がさし、離れようとすると
「私達、”友達”でしょう?今まで仲良くしてたじゃない!これからも一番の”友達”でいよう!」
としつこく擦り寄ってきた。
”友達”ってどう言うものか知らなかったので、そんな関係性をそこからも15年続けてしまった。
「趣味は何?」
と聞かれ、
「文章を書くこと」
と答えるとその場が静まりかえる。
「へえー・・・地味な趣味だね」
大体これで終わりだった。
”好きの反対は嫌いじゃない。無関心だ”と、よくいうけどまさにみんな”無関心”だった。
趣味は何?と聞かれるとその場に応じた答えを言う様になった。
意地悪な女”友達”は合コンに数合わせで誘っておいてその場が趣味の話になった時に
「読書とか映画が好き」と答えた私に「違うじゃん!文章書くことでしょう」と遠くの席からツッコミを入れた。
合コン前その子が「合コンではウケのいい答えを言ったほうがいい」と言ったのにだ。
「無難に趣味は読書、映画にしておこう。文章書くって言ったら変な空気になるし・・・」
と、言うと「そうそう、それの話よ」
なんて打ち合わせしたのに。本当に嫌な女だった。そんな人を私は”友達”と呼んでいた。
ここ2年、私は今までの人間関係を切っていった。新しく知り合った人たちは、性格や趣味が合わない人もたくさんいたけど「文章を書くのが好き」と言っても難色を示さなかった。それどころか「知性があるんだね」と言ってくれた。
それはそれでハードルが上がり躊躇してしまう自分がいたけれど、受け入れられることの心地よさを知ることができた。
さらにnoteを始めるとこんなにも文章を書くのが好きな人がいるんだと嬉しくなった。
ドクン!!と、胸を打つ文章ばかりでため息が出る。本当に尊敬してしまう。
読んだ後にその文章を高校生が書いていると知ったりすると、とんでもないモンスターが居ると驚いてしまう。可能性を秘めている人を見ると、自分も夢を見ようと人生に輝きが生まれる。
もっと早くに同じ好きなことをしている輪の中に入ればよかった。そうすれば好きなことをコンプレックスとして持つことなどなかった。
そもそも「好きなもの」を馬鹿にしたり笑ったりする様な人間としか付き合ってこなかった事が問題だ。
私自身も”自分”という軸が無く相手のご機嫌伺いばかりしてきた。そこにつけ込まれてきたのだろうけど・・・やはり弱い人を見つけ、馬鹿にしたり恥をかかせたたりする事で、相手を笑い者にして優越感を持とうとする人はどうしようもない人間だと思う。
そんな人間は同じ者同士で仲良くして欲しいが、それだと自尊心を満たすことは難しくなるのだろう。心の弱い人や純粋な人達からの方が自分の欲しいモノを簡単により多く奪える。
多様性を考えるならば彼らの事も認めなければならない。
もともと奪われる側の人間は奪う側の人間を認めているからこそ、自分の世界へ招き入れてしまう。
奪う人間は必ずいる。せめてそいつらを跳ね除けるパワーは持ち合わせていなければいけない。
奪われ消耗される人間になったら何の為に生きているのか分からなくなる。
奪う人間はいる。その存在を認識し、自分は付き合わないと言う線引きをきっちりさせたいところだ。
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