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#赦しのまなざし
コースを他のスピリチュアリティやセラピー、ヒーリング、自己啓発といったものと融合させることについて
コースを学んでいるその目的は何なのか?ときに、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)をセラピー、ヒーリング、自己啓発、あるいは、他のスピリチュアリティと融合させたり、混ぜ合わせたりしているケースがあったりします。
そのことについて述べてみようと思うわけですが、
そのためには、まず、
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)とはどういうものなのか?
についてはっきりさせておく必要があ
裁くことをやめられないときは、どうしたらいい?
裁き、攻撃が止められないときコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践をしていくとき、つい私たちは裁かない(攻撃しない/咎めない)自分になろうとします。
でも、私たちが覚えておかなければならないのは、コースはそのような実践をしていくような霊性の道ではないということです。
もし裁かない自分になろうとするならば、余計に自分を咎めてしまうことになってしまいます。
コースの実践で私たちがしてい
何のために「赦し」をしていくのか、しっかりわきまえて実践していきましょう
「赦しの視点」「赦しのまなざし」とは赦しの視点とはいったいどのようなものなのでしょう?
それを、一言でいうなら、
We are all the same.
私たちすべては一緒(同じ)
というところからすべてを包含して見ている視点だと言うことができます。
それは、奇跡の第一原理である「奇跡に難しさの序列はない」に基づいた見方です。
そこから見るなら、「どれが正しくてどれが間違っている」とい
イエスや聖霊が見ているもの
自我を咎めずに見るコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちは「自我を咎めずに見る」という実践をしていくわけですが、
自我を咎めずに見るとは、いったいどういうことを言うのでしょう?
「咎めずに」とは、つまり、「ジャッジ(価値判断)なしに」ということです。
ただし、ジャッジなしに見るためには、すべてを全一に虚偽(幻想)として見る以外にないということです。
そのように見ることのできる視点
投影に気づいていく実践をしていくことによってどうなるのか?
他者はいない、全一なる自分が在るだけコース(奇跡のコース/奇跡講座)では、「投影」という心理学用語が出てきます。
コースという霊性の道を歩んでいく上で「投影」についての理解は必須であり、その原理(仕組み)を理解しないかぎり、コースの実践はあり得ないと言うことができます。
実際に、コースの実践では投影に気づいていくことをしていくだけでなく、投影に気づいたならその投影の源である心に戻っていく訓練
個別の「私」と、一なる心の「私たち」
私はいない私は肉体(身体)ではない。
もっといえば、「私」というものはいない。
「私」というものがない。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくにつれて、そのことが体験的分かってくるようになります。
つまり、「私」というものも自分がでっち上げた想念でしかないと理解するようになっていくということです。
さらには、個別性、特別性、個人性というものが、いかに馬鹿げて狂
「出家」の意味、「この世界からの脱却」の意味
出家について真理を探究する者たちがもっとも陥ってしまう間違いが、「レベルの混同」だといえましょう。
「レベルの混同」とは、霊性の道の訓練(修行)は本来心のレベルでなされるものであるにもかかわらず、物理的(肉体的/身体的/行動的)レベルのものと混同してしまうということです。
例えば、精神修行のために、肉体を痛めつけることをしたり、この世界から離れ、出家するとか、修道院に入るとか、人里を離れると