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#夢を見ている者
夢から目覚めるのは誰なのか?
自分と思っているこの「自分」が目覚めるのではないコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)はこの世界の夢から目覚めることを最終的な目的としています。
ただし、私たちが勘違いしがちなのが、自分と思っているこの「自分」が目覚めるのだと思っているということです。
そうではありません。
この「自分」が目覚めるのではありません。
この「自分」が完璧になるのではありません。
この「自分(=私)」は実
「赦しの視点」とは、つまりそれは、「悟りの視点」である
自分が「悟り」に到達するのではない非二元の霊性の道を歩んでいく上で私たちがよく勘違いをしてしまうのは、自分が目覚めるのだと思ってしまうということです。
自分と思っている自分が「悟り」に到達するのだと思ってしまうわけです。
「目覚め」「悟り」とは、まったくそういうものではないということを知っておくとよいでしょう。
「目覚め」「悟り」とは、むしろ、その自分こそが非実在なのだと受け入れたそこにあ
この世界の夢の外側から私たちを見たらどのように見えるのか?
イエス/聖霊は私たちをどのように見ているか?コース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践を通して赦しの視点から見るならば、私たちが体験しているこの世界は夢であることが明らかになります。
そのすべてが虚偽(夢の中)であることが分かるということです。
そして、本当の自分(真の自己)はその夢の外に居るということも、イエス/聖霊はその視点から見ているということも、体験的に理解されることになります。
そこか
夢を見ているのは誰なのか?
知覚しているその主体とはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えているその中心となる概念が、
世界は無い
というものです。
世界も無ければ、他者もいない、ということです。
それが意味するのは、この世界のすべて、この人生のすべてが「夢を見ている者」によってでっち上げられた夢であり、私たちはそれぞれその夢の登場人物と同一化しているだけなのだということです。
そこで私たちにとって重要と
「これは夢である」と気づいているだけではまったく十分ではない
明晰夢について明晰夢とは、夢を見ていながらも「これは夢である」と気づいている状態のことを言います。
「悟り」の状態とは、そういうものだと言うことができます。
ただし、「悟り」は、それで終わりではないということも知っておかなければなりません。
さらにその先に、「悟り」の状態を完成させていくプロセスがあるのだということです。
いわゆる、「完全なる悟り」へと至る道があるということです。
そし
人生で経験していること、そしてこれから経験していくことはすでに決まっている
ドラマだと気づいている視点から見る私たちが「人生」と呼んでいるものは、いったい何なのでしょう?
非二元(ノンデュアリティ)の教えでは、それを幻想だとか、あるいは、すでに撮り終えたドラマであるというふうに云っています。
そう、非二元のスピリチュアリティでは、それを「起きることが起きているだけ」というふうな言い方をしますし、コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、それを「シナリオはすでに書かれてい
聖霊やイエスは私たちやこの世界をどのように見ているのでしょう?
コースは聖霊/イエスと同一化していくための霊性の道である私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぶとき、自我(の思考体系)について、そして、自我の力動について学んでいくことになります。
それはなぜなら、自我と同一化している自分を自覚できるようになるために、です。
というのも、私たちはすでに自我と同一化してしまっているからです。
そのことを自覚/認識するようになるとき、そこからが
「心を忘れた状態」から「心を自覚した状態」への完全なるシフトを目指して
このコースの学びのゴールは贖罪ですコース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びと実践を通して、私たちは何をしていくのか?
というなら、真のアイデンティティーを思い出すこと、さらには、その自己へとアイデンティティーをシフトしていくことだと言うことができます。
つまり、「肉体の自分」から「心の自分」へ自己認識(アイデンティティー)をシフトしていくことが私たちコース学習者がしていくことなわけです。
その
壮大な夢のドラマから目覚めていくために
私たちは壮大な夢のドラマを見ている自分は何者なのか?をすっかり忘れてしまっている、それが私たちです。
「自分は人間である」とすっかり信じ込んでいて、その人間としての主人公の人生をより良くしようとあくせく生きているわけです。
それが、大いなるジョーク(冗談/嘘)であるにもかかわらず、です。
何のために生きているのか?
なぜここ(この世界)にいるのか?
そんなことに疑問すら抱くことがありま