フリーでいたい人のための暦と場

なぎ食堂の小田さんが雑誌『スペクテイター』のインタビューで「コミュニティに入らなくてもなんとかやってける方法」とか「自分に会いに店に来る人はひとりもいなくていい」って言ってて、腑に落ちた。コミュニティやムラでそれなりに渡り歩けてしまう私ですら、ムラの空気に疲れるときはあるから分かりみがある。「つながり」や「コミュニティ」が必要とされるときもあるけど、基本的にはフリーでいたい人のための方法論を、個人や民間で「公共」を実践している人たちは持っている。町は生き物。人も生き物。私設公民館のようで、誰をも受け入れることに向き合ったり、うまいことやれるような市場をつくっている。私は「1.5人」でいられるサウナや、特に構われなくても顔見知りが増えることで安心する銭湯や、出入り自由の #FREEUSHIKU のキャンペーンに可能性やチャンスを見たりする。

私たちが川崎や横浜でやっているアートはダイレクトな「地縁」発生ではあるのだけれど、政治や差別に対して問題意識を持つコレクティブでもあるから、なんとなく理由なくも、必要があって「つどえる(集える)」空気がある。飲み会のネタを探している風でもある。東日本大震災後に隈研吾が言った「しがらみは快楽になる」という台詞は的を射ていて、ずっと頭に残っているのだが、それも更新の時期にきたようだ。土地の面倒な「しがらみ」も慣れてしまえば快楽になる、意。その気持ちも分かるけれど、現在進行形では「しばりが快楽になる」でいいのでは。その「しばり」は自分で決めてもいいし、抜けてもいい。自治が認められている。

私が考えるしばりは「暦」。フリーでいたい人が集うための方法論は、祭ではなく暦なのではないか。祭は人が集うためのコンテンツだけど、好き嫌いも生まれる。コミュニティ維持のためのコンテンツがしがらみになる。しがらみを快楽として受容できれば良いが、そうもいかず、手放しで賞賛はできない。しかし「暦」は四季折々のスケジュールのことだから、関わり方も含めて参入ハードルを低く設定できる。暦の1つのコンテンツ=祭として考えたら、そこまで気張らなくてもいい。思いがある人、ちょっと手伝いたい人、気になって年に一度は帰ってくる人。人は暦で祭を記憶する。

皆がそれぞれのレイヤーでDIYに好きにはじめている。フリーでクラウドのアクティビストたち。暦や尊厳や公共空間にあえて「しばられ」て、ときどき抜けたり戻ってきたりすることが出来る。そのためのサロンやネットワーキングがあちこちで生まれている。先日、田町・芝浦の『SHIBAURA HOUSE』のお茶会に参加した。オランダの教育や福祉、難民支援の現場の視察土産話を聞いた。「公共」を考えていたタイミングで、私の意図に合致したサロンに出会えたことが喜ばしい。川崎の反差別運動、コレクティブ・ハウス、官民連携、虐待防止に繋がる子育てメールプロジェクトなどについて、おしゃべりをした。調子こいて、いつも以上によく喋った。 http://www.shibaurahouse.jp/ 

『SHIBAURA HOUSE』は平日は1階は誰でも自由に使えるコミュニティ・スペース。土日祝日はお休み。場所が京浜東北線沿線の動線に位置することは、私にとって大きなヒントをもらったようで、心湧く。これに関してはのちのち明らかになるだろう。社会について考えて、変えてゆくための入口はたくさんある。「つながり」の作法や温度差も自由で、自然発生的なコレクティブや一通のメールからはじまる。芝浦は、オフィス街の前は倉庫街だったそうだ。再開発やリノベーションが生む市場またはコミュニティーに、共生したい人たちが含まれる動線が設計されているか、常に敏感になる。

ゴードン・マッタ=クラークは、ジェントリフィケーションへの懐疑としてのアートを展開した。図らずもゴードンの手法や感性がジェントリフィケーションを生んだ可能性については批判的に考察されてしかるべき。地域・社会との関係を築くための必要条件は、多様性。クリエイティヴや建築は「排除」の可能性にセンシティヴにならなければいけない。共生を愉しもう。

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