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読書感想 『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』  「社会の反映」

 名作と言われている近代文学の多くは、例えば「夏休みの課題図書」だったり、教科書で出会ったせいか、大人になってから、なんとなく縁が遠くなってしまうことが多い。

 それでも、思いついたように過去の文学を読むと、その凄さを感じることもある。

 例えば、実は夏目漱石の「明暗」は、まるで見栄を張ってしあう現代の男女の気持ちの繊細な読み合いまで描かれているように感じて、やっとすごいのが分かったのが、自分が中年になった頃で、同時に、これは若い時よりも大人にならないと読んでも理解できないのではないか、と自分の無知を棚に上げて思ったりもした。

 その一方で、明治以降の「青春小説」は、ちゃんと読んでいないような気もするけれど、特に自分が大人になってからだと、主人公が学生だったり、若かったりすると、微妙に読めないような感じがして、それが、自分の能力の問題なのか、小説側の問題なのか、わからない部分もあった。

 だけど、この書籍を読んだあとでは、もう一度、近代の「青春小説」を読むことに挑戦できるかもしれない、と感じるくらいに、視界が晴れたような気がする。


『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』   斎藤美奈子

 冒頭に近いところで、近代の「青春小説」へ薄々感じていた疑問のようなものが、初めて明快になった気がした。

 最初にいっておくと、近代日本の青春小説はみんな同じだ。「みんな同じ」は誇張だが、そう錯覚しても仕方ないほど、似たような主人公の似たような悩みが描かれる。
① 主人公は地方から上京してきた青年である。
② 彼は都会的な女性に魅了される。
③ しかし彼は何もできずに、結局ふられる。
 以上が青春小説の黄金パターン。「告白できない男たち」の物語と呼んでおこう。

(「出世と恋愛」より。以降も、引用部分は、基本的に同著)

 自分自身も、地方から上京してきたわけではないのに、似たような若い時があって、だから、棚に上げられるわけもないのだけど、そんな自分から見ても、近代の「青春小説」では、何やっているのだろう?と思ってしまうような主人公の、極端に言えば挙動不審のイメージがあった。

 だから、いろいろな場所で断片的に読んだようなうっすらとした読者であっても、納得できてしまう分析だった。

日本の男性は、概して恋愛が下手である。恋愛に限らず、学校でも職場でも家庭でも、女性との(とあえて限定するが)人間関係の築き方が上手とはいいがたい。

(「出世と恋愛」より)

 これも、自分のことを棚に上げるけれど、展覧会で見た川端康成の、若い女性への手紙(一応ラブレターだと思う)が、とても一方的で、とても高飛車で、ちょっと引いた気持ちになったことを思い出す。

考えられる理由のひとつは生まれ育った環境である。近代の日本は男女別学の歴史が長かった。

(「出世と恋愛」より)

 
 これは正しい見方だと思うが、このことは、今もそれほど変わっていないのかもしれない。それも、いわゆるエリート層と言われている男性の中では。

 この記事↑の中でも、東大の医学部の学生で、男子校出身で、共学出身に、ほとんど幻想の敵意を持っていることが書かれている。

 これからの社会で、こうした発想はやっぱりどこか危ういというか、もう男女別学は避けた方がいいのでは、と思うような印象だけど、その始まりが明治以降の近代にあることが明らかになってくるし、今後、この「出世と恋愛」で扱われている作品を読むときは、著者の斎藤美奈子氏の視点から自由ではいられないと思う。

 そのくらい、新鮮で魅力的だった。

名作の背景

夏目漱石『三四郎』(一九〇八=明治四一年)

(「出世と恋愛」より)

 こうして発表された年月も共にあげられているから、そこで時代の変化のようなものも考えられる。そして、当然ながら、この明治の当時の風潮と、『三四郎』の内容とは無縁ではない。

上昇志向に火を付けられた親たちの教育熱が沸騰し、旧士族を中心とした「いい家の子」は、こぞって上の学校を目指し、上京した。 

 そして、斎藤の視点に沿って、主人公とヒロインとの意識を追っていくと、改めて、こんなに違うことに少し驚くような気持ちにもなるし、三四郎は、あまりにもウブすぎるのではないかとも思えてくる。

こうしてみると、三四郎と美禰子の行動は最初からズレていた。美禰子の気持ちが野々宮に向いている以上、どうがんばっても三四郎に勝ち目はなかったのだ。別言すると、三四郎は恋愛のとば口にさえ、じつは立てていないのである。

 明治の巨匠、もう一人の森鴎外の『青年』は、『三四郎』の2年後に発表されている。

森鴎外『青年』(一九一〇=明治四三年)

 まず知らなかったのが、「青年」という言葉に関して、だった。

明治後期に一世を風靡した流行語だったのである。

 さらに、不謹慎な表現になるかもしれないが、この頃は若い人たちの間では「自殺ブーム」だったといわれている。そして、そのきっかけもはっきりしているという。

一九〇三(明治三六)年、日光の華厳の滝に身を投げて命を絶った一高生・藤村操である。

 ただ、この時代の「恋愛論」といっていいものが、最初から矛盾に満ちたものであったことも、若い人たちの苦悩を深めていったようだ。

恋愛に至上の価値を置きながら、恋愛に性をもちこむことを「禽獣の位地」と呼び、なおかつ結婚は堕落への道だと述べる。矛盾に満ちた恋愛論で、こんなのにハマったら悩みが増すこと必至である。

 そして、ある意味、身もフタもないけれど、藤村操や、北村透谷に関しての、こうした結論に関しては、とても納得がいった。

透谷は二五歳の若さで自らの命を絶ってしまった。透谷も、あるいは藤村操も、長生きしたら「あれは若気の至りであった。面目ない」と赤面したのではなかっただろうか。人生、早まってはいけないのである。 

(「恋愛と出世」より)


 さらに、『三四郎』から10年以上が経ち、それでも、その主人公が進歩しているわけでもないことを、武者小路実篤が書いている。

武者小路実篤『友情』(一九二〇=大正九年)

 例えば、ヒロインから見た主人公(野島)と、そのライバル(大宮)との対比。

自分を対等な対戦相手として扱ってくれた大宮。手加減を喜ぶ野島とは、残縁ながら雲泥の差だ。 

 にもかかわらず恋する相手の実像を見ず、卓球の腕も磨かず、妄想だけを膨らませる野島。単なるバカで片づけてもよいのだが、いちおう背景を見ておこう。
 大正時代は恋愛論がブームになった時代である。 

 ただ、この主人公は、現実の世界も含めて、大正時代だけではなく、今も、いるような気がするのが、おかしいというよりは、ちょっと怖い。

杉子の結婚と仕事上の成功が同時進行しているあたりが、妄想とはいえ図々しい。

 もっとも、同様の妄想にひたる男子は意外に多かったように思われる。なぜってこれは戦後も含めた、恋愛結婚至上主義の時代らしい妄想だからだ。

(「恋愛と出世」より)

ヒロインの変化

 その一方、時代が経つと、ヒロイン像は、変化していくようだ。

菊池寛『真珠夫人』(一九二一=大正一〇年)

大正モダンガールを先取りした作品 

父や夫や恋人の不埒な言動に忸怩たるものを感じていた女性読者は、溜飲を下げたにちがいない。そうよ、男は勝手よ。私だってほんとは瑠璃子みたいにやりたかったのよ!

 もちろん、そうした作品は一つだけではない。

細井和喜蔵『奴隷』(一九二六=大正一五年)

心変わりだ、打算的だの罵られるいわれはない。それを「女の裏切り」と思わせるのが、男性を主役にした近代文学のマジックである。ヒロインたちは内心いいたかっただろう。悪いのはそっちだっての! 

 そして、ある意味では、時代がやっと追いつくときがくる。

宮本百合子『伸子』(一九二八=昭和三年)

『伸子』は二〇年遅れの『三四郎』だったといえるだろう。いいかえれば、『三四郎』から『伸子』までには二〇年の時が必要だった。

①  二人とも聴講生とはいえ大学で学び、漠然と将来への夢を抱いて
  いた。
② そして、今まで知らなかったタイプの男性(困難な男)と出会っ た。
③ しかし、その恋は破綻し、手痛いダメージを被った。

 ただ、『三四郎』と、こうしたヒロインたちが違うのは、相手に正面から向き合ってからのダメージだったから、おそらくは意味合いが全く違うだろうし、描かれなかったとしても、その後の主人公の成長や、あり方は、変わってくるはずだ。

「風立ちぬ」の時代背景

 例えば、『風立ちぬ』も、その時代背景を考えたら、おそらく読むときにも印象が変わってくると思える。その刊行は、1938年、昭和13年。盧溝橋事件が、その前年のことだった。

 恋愛小説史的にいうと、この作品が果たした役割は二つある。ひとつは『不如帰』が提示した「結核のロマン化」がここで完成したこと、もうひとつは「死の美化」である。

『風立ちぬ』は、戦場でもっともよく読まれた作品だった。  

『風立ちぬ』は、現実逃避としても、死を受け入れる精神安定剤としても機能したのではあるまいか。 

 そうした視点自体を、恥ずかしながら、知らなかったし、わからなかった。

立身出世という、戦前の青年たちを鼓舞した思想自体が、戦争と親和性が高かったのだ。立身出世とはそもそも、体制に順応し、競争原理を是とし、ホモソーシャルな世界で醸成された国家公認の思想である。「国の役に立つ人になる」と「国のために死ぬ」は紙一重である。国家の方針が変われば、若者たちに対する要求も変わるのだ。

(「出世と恋愛」より)

戦後も、立身出世というスローガンは、形を変えて生き残った。

 
    だから、近代の「青春小説」は、今にもつながっているし、そして、主人公のあり方も、恋愛への姿勢も含めて、想像以上に変わっていないかもしれないので、この書籍で気になった「青春小説」を読めば、それは、本当に、現代と関係ある世界として見えてくるのだろう。



(こちら↓は、電子書籍版です)。




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