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スケートボード中継で考えた「解説」の距離感

 オリンピックというイベントそのものへの疑念は消えない。かといって一切見ないという徹底もできないのは、スポーツを見ること自体が好きなせいもある。

 特に、今まで見たことがない競技は新鮮さがある。

 緊急事態宣言下で行われた東京オリンピックに関しては、今でもさまざまな検討をするべきだとも思うけれど、この大会から正式種目になったスケートボード競技を初めてみて、順位を争ってはいるのだけど、いつも一緒に滑っている仲間、といった気配が濃いことに感心もし、こういう世界だったら、自分もやりたいかも、と少し思ってしまった。


独特の解説

 そんな印象もあったから、パリオリンピックでも、スケートボード・ストリート競技を中継していたので、見てしまった。女子ストリート、という名称がついていた。

 競技場の色合いも、なんだかおしゃれな感じがして、やっぱりフランスだから、と思ってしまったのだけど、予選は、成功率が低く思えて、やたらと歩いている姿が目立ってしまい、それほど長く見られなかった。

 だけど、夜中の決勝になると、当然だけどプレーの(プレーという言葉がすごくふさわしいような、少しそぐわないような不思議な感じがする)質は上がって、格好良く見えた。

 それに、耳に残ったのが解説の声のトーンだった。

 もしかしたら、やたらと叫ぶようなスポーツ中継の解説に、嫌だなと思いつつも自分も慣れてしまっているのかと思いつつ、すごく平熱な感じが気になった。

 それでも聞いていると、スケートボードの技術の凄さを知らないせいもあって、解説者の反応が気になってくる。それに、日本人選手のメダルの可能性のような話題になると、この決勝に残れただけで、しかも日本人選手が3人もいるなんてすごいこと、といった言い方をしていて、それは、トーンは低いながら、ウソくささが少なかった。

 さらに選手の滑りに関して、少しトーンが上がって、「やべー」という言葉が出ると、あ、今の滑りはすごかったんだな、と思うようになり、そのあとのスローモーションを見ると、視聴者には見えてなかった回転とか、ボードのほんの一部だけで体全体を支えていたんだ、といったことで感心もできたりする。

 時間が経つと、この解説者のトーンと、すごい時はすごいというけど、そうでもない時は、あまり言わないのだろうと、微妙に一方的な信頼感が芽生えていたから、見ている側は不思議だった。

 決勝は、最後まで、おそらくはスケートボードに乗っている人たちにとっては、気持ちを削るような展開が続いて、結果としては、日本人選手が1、2位という報道する側にとっては最高に近い結果になったのだけど、こういう解説者がいたんだ、という小さな驚きまであった。

 しかも、逆転で日本人選手同士が争うことになったのだから、最初は1位だった選手が抜かれることになり、それは悔しさで心をえぐられていたかもしれないのに、そこにあまり焦点を当てずに話していたのは、プレーヤー寄りの視点のように思えた。

 ただ、この解説者は、すでに3年前に話題になっていたから、恥ずかしながら、私が単純に知らないだけだったし、しかも、少しおとなしくなったらしいことまで、全く無知だった。それでも、その解説は、異質に感じた。

 それでも、27歳という年齢を知ると、20代の3年間は変化も大きいから、口調が落ち着くような変化も自然かもという気持ちにはなっていた。

劇的な展開

 これまで知らなかったのに、翌日の夜の男子スケートボード・ストリート決勝では、この解説者の言葉を待っている自分がいた。

 やべー、が出ると、確かに得点も高かった。

 男子選手は、さらに難度が高い滑りをしているようで、スローモーションを見てから、思った以上にボードを回していたりして、こんなことをしていたんだ、と遅れた驚きも増えていたし、それは、典型的な「にわか」にすぎないけれど、前日も見ていたおかげだとは思う。

 競技は、劇的な展開になった。

 このストリートという競技は、ランと、トリックの2種類のプレー(適切な表現でないような気もする)で順位が決まる。

 最初にラン。次にトリック。

 ランは2回すべって、いい方の得点。

 トリックというのは、一回の滑りで、すごい技術を見せる、というものらしいが、5回行ったうちに2回のベストスコアで争うことになる、というのは見ていて、理解できた。

 そして、勝負は大詰めまでわからなくなった。

 前回のオリンピックチャンピオン・堀米雄斗は、最後のトリックの機会まで、何度も失敗をしていて、視聴者としてはもう無理ではないかと思っていた。それは、競技場の夕暮れの気配と共に、連覇のようなものはすごく難しいのでは、と感じていたのに、最後の5回目に、堀米はここまでの最高の得点を叩き出した。

 やっぱ、すげえな。

 解説者は、そうした言葉を、叫ぶのではなく、感嘆を絞り出すような発声で放っていた。

 それは、見ている方も、共有できるようなトーンだった。

解説の距離感

 オリンピックに限らず、スポーツのすごいプレーには、解説や実況が絶叫する、というパターンが長かったような気がする。

 それは、自分がこれほど感動しているのをわかりやすく伝えることによって、今、テレビに映っている場面が、どれだけ特別なことなのか。それを表してもいるから、これまでのスポーツ中継の歴史の中でも、その選手の凄さと共に、その実況する声も記録として残っている。

 そのことで、のちの実況や解説も影響を受けていて、それは今でも続いている。

 だけど、今回、スケートボードの瀬尻稜氏の解説を聞いていて、そうした流れとは違って、声も小さめだったし、トーンも低めだったのだけど、心地が良かったし、納得がいった。

 それは、まず選手との距離感が絶妙だったからかもしれない。

 例えば、今回、逆転で金メダルを獲得した堀米雄斗が、東京オリンピックでチャンピオンになったことで、それからの年月を「地獄の3年間」と表現したことについて、アナウンサーに聞かれて、「いや、わかんないっすよ。それは、雄斗にしかわからないことなので」とさりげなく答えていたが、ただ、実は、そうしたことをアナウンサーが聞きたくなるような実績も瀬尻氏にはあった。

 それでも、その堀米に対するコメントの中で、年下である堀米に、雄斗と名前で呼ぶのは親密さなどを主張するよりも、オリンピックのチャンピオンに対しての自然な敬意があることは伝わってきた。

 同時に、楽しくて、好きで滑ってきたはずなのに、それが苦しくなって---という競技スポーツの持つ根本的なジレンマについても、堀米に対してだけでなく、何度か繰り返していた。

   実力と実績がある(あった)プレーヤーが解説をするときに、この距離感と視点を保つのは意外と難しいのではないかと思えるので、それも含めて、思った以上に瀬尻氏には、解説に適性があるのではないかとも感じた。

応援と観戦

 東京オリンピックに関して、終始一貫、筋の通った発言をしていたと思えた山口香氏が、著書の中で、重要な指摘をしている。

 2013年に、テニスのウインブルドンでイギリス人が優勝した。それは、77年ぶりのことだった。その出来事から、山口氏の分析が始まる。 

 つまり77年間、イギリス人の優勝はなかったということだ。優勝どころか、この大会でイギリス人選手が上位に食い込んで活躍すること自体、そうそうあることではない。ところがウィンブルドン大会はいつでも大盛況だ。自国選手が出ていなくても、イギリスの観客は熱狂して大会に足を運ぶ。イギリス選手が活躍するかどうかは大きな問題ではない。彼らはどこの国の選手であっても世界超一流のプレーに息を呑み、喝采を送り続けてきたのだ。

 それに対して、日本の現状はどうだろう。
 いまだに自国民が勝つか負けるかが、最大の関心事になってはいないだろうか。
 スポーツ競技の「観戦」というより、特定の選手への「贔屓」「応援」を目的にしてはいないだろうか。知り合いや地元のチームが試合に出るとなると、目の色を変えて応援する。そのスポーツが好きだから見にいくという人は、残念ながらさほど多くない。そのあたりが、スポーツが「文化」として根付いている国かどうかの分かれ目ではないだろうか。
 応援か、それとも観戦か。
 両者の違いは意外と大きな問題だ。
 応援が観戦へと変わっていくとしたら、スポーツの裾野は大きく広がるだろう。
 裏方から表舞台まで、スポーツに関わる人間もぐっと増えてくるだろう。

(『残念なメダリスト』より)

 今回のパリオリンピック中継も、あまり見ていないので、指摘する資格はないのかもしれないけれど、今でも「応援」の方に重点が置かれた報道が圧倒的に多いように思う。

 それに関しては、スポーツそのものの凄さを見たいし、楽しみたい人にとっては、その絶叫が時として邪魔になることすらあるのではないかと感じるし、実は「観戦」へ移行している人たちも多いのではないかとも思う。

 さらには、そのスポーツのプレーそのものを味わいたい時には、実況や解説さえ邪魔になることもあるだろう。

 だから、これは大げさかもしれないけれど、スケートボードの瀬尻氏の解説は、「応援」よりも「観戦」を促す方法に思えた。

 どの国の選手であっても、すごい滑りには、同じように「やべー」と言い、注意を促された。

 瀬尻氏本人には、そんな小難しい意識はないのだろうけれど、視聴者としての気持ちよさは、そこにあるのではないかと思えた。

 もちろん、にわかにすぎないけれど、それでも、その時間は自国選手の活躍はもちろん気になるものの、それよりも、すごい瞬間が見たい、という、それも勝手な欲望かもしれないけれど、でも「観戦」側の気持ちになれたのも、瀬尻氏の解説のおかげだと思う。

スケートボードの競技の未来

 競技の結果が明らかになって、表彰式を迎えるまでに、NHKだからなのか、その間も競技場や選手の様子を映しながら、解説者の話が続く時間があった。

 その時間の中で、瀬尻氏の話は、広がりを持つものだった。

 楽しむことが目的でもあるスケートボードが、コンテストでもあるオリンピック競技になることに批判的な声もあった。

 それに、オリンピックだけではなく、コンテストのようなものに見向きもしないで、すごい滑りをしている人たちも大勢いる。

 だから、よかったら、そういう人たちのことも知ってほしい。

 今でも、コンテストではなく、ストリートにはストリートの良さもあるし、凄さもある。だから、これで興味を持ってくれたら、それも見てほしい。

 そんな話を続けて、さらに、こんなふうにまとめていたように思えた。

 ---コンテストになるのに、オリンピック競技になることに、いろいろあったけれど、でも、これだけすごいのを見せられたら--。

 それはスケートボード競技全体と、その未来に関する話だった。

 今回も、上位に中国の選手が入ってきた。まだオリンピック競技としての歴史が浅いほど、新規参入してくる「国家」はありそうだし、国をあげて強化すれば、その成果も早く上がるかもしれない。

 だから、もしかしたら、表彰式に上がった選手たちが、その順位にかかわらず、チャレンジしたかどうかを讚え合うような文化は、競争が激しくなれば、そして、楽しいからスケートボードをする、というよりも、勝てるから楽しい、というアスリート型のプレーヤーが増えていけば、もっと緊張感が強い競技場になっていく可能性もある。

 そうであれば、「楽しむ」と「競う」のバランスが、現在はまだ取れているとしても、今後は、どんどん「競う」の方に重心が移っていく可能性まであって、そのときは、瀬尻氏は、どのような解説をするのだろうか。もしくは、そうなってしまったスケートボード競技の解説は、もう引き受けないのだろうか。

複雑な背景

 本当に、にわかな付け焼き刃な知識で申し訳ないような気持ちにもなるが、瀬尻氏自身が、実力も実績もありながら、オリンピックに出場することを選ばなかった人だったのを初めて知った。

 彼はスケートボードがファミリースポーツ化する以前の2000年代初頭から、父子鷹による徹底した英才教育を受けて育った、いわば最初の“アスリート”スケートボーダーであり、2010年代のスケートボード界に起こる新しい潮流を作り上げたと言っても過言ではない。

(『Number 』Webより)

 さらには、「最初のアスリートスケートボーダー」という存在でもあるようなのだけど、そうしたさまざまな背景を持っていることが、屈折した重さにつながるのではなく、「やべー」という敬意も伝わりやすいカジュアルな表現として現れていると考えると、なんだかすごい人なのでは、と改めて思った。

 次のスケートボード競技の「パーク」では、中継するテレビ局が違うのだから、当然なのだろうけど、解説者は違っていた。

 すでに瀬尻氏の解説が、懐かしくなっていた。



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