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私は男性になりたいという気持ちと決別し、女性にならなくてはという気持ちとも離れて、歩き始めた。

毎日のnote投稿をはじめて100日が経った。100日目には私のジェンダーに向き合おうと思っていたから、とりあえずその日まで来れてよかった。

私は今まで生きてきて自分の性別を本当に良く悩んだ。自分が男性なのか女性なのか本気で分からなくなったこともあるし、男性として扱われたかったこともある。それでも近年は振り返ってみれば、なんとなく私は女性だろうなと思うようになっていた。

小学生の頃には、特に性別違和はなかった。ただ、もやもやとした気持ちの向けどころが振り返ってみればほとんど女の子に対するものだというのは言えるかもしれない。赤い頬っぺたのりかちゃんの話とかは自分で思い出してみてもむずがゆくなる。学芸会で男の子役をずっとやり続けていた。一方でクラスのガキ大将的な男の子にいじめられ続けてもいた。

学生の頃は、女子校に入学した。女子校に行きたいという気持ちはなかったのだが、自分の学力相応で親も納得できるところというような選び方をしたらそうなっただけだ。性別の自我が生まれていなかった私は、男性がいないことでさらに自分の性に正直になるという女子校の教育特性の恩恵を受けていた。自分にしかできないことの追究をはじめ、性別が後付けになっていった。女性に対する言いようのない仄暗さを何度も何度も感じた。

突如髪を少年のように刈ったために、女性専用車で注意を受けるという経験を頻繁にしでかすようになったのはこの頃である。一人称「俺」期がどの段階にいたのか忘れてしまったが、そんな時期もあったのは確かである。よく言えばほっそりとした、見たままに言えば骨が服を着て歩いているような感じの私だったから、それは多分致し方のないことなのだと思う。そう、私のデフォルトの声は低い。

勿論この時も男の子役とかっこいいでほとんどを生きた。この時に明確な答えが出なかったのは、私なんかよりも強い性別違和を感じている友人たちがいたから。違和感に優劣はないのだとは分かっていても、なんとなくそういうことじゃないという気持ちが私のどこかにあった。

そこから演劇や表現の世界に傾倒していくことで、私の性別はぐちゃぐちゃになっていく。好きな女の人好きな男の人もいた。社会の示す女性像に一つも当てはまることがなく、男性だったら良かったという苦しみで支配され、結局何者なのか分からずじまいだった。精神を病んで、休養して再び社会に出た時、私は完全武装していた。

話しかけられないようにという気持ちが大きくて、それでも仕事は楽しかったから、いつの間にか自分が男性に成りたかったこととは距離を置けるようになっていった。会社という組織に身を置くと、世の中での女性の扱われ方が気に食わなかったのかもしれないという側面も見つけた。それでも女性に見えるように髪の長さはずっと伸ばし続けていた。生まれつきの体の性別が女性なのだから女性に見えるのでは?という冷静な指摘は私の前では通用しない。作らないと私は女性ではなかった。

髪の毛を伸ばして、化粧を忘れず、電話の声は極限まで高く張り上げる。あまり強い物言いをしないように、冷酷そうな顔だと言われたから弱弱しく見せる方法を考えた。頑張って女性になろうと思ったのだ。

それからどうしたら普通に恋愛して結婚するみたいな気持ちが発芽するのかといつの間にか考えていた。種なんか撒いていないから、何も生えて来やしないのに、一生懸命私は私に水を与え続けた。私の自我が水にふやけてぶよぶよに肥大し始めたあたりで、私は思い出すのだ。

女性であることと恋愛や結婚や妊娠を切り離して考えられていた昔の自分の存在。弱々しさを女性らしさとした古めかしい自分のジェンダー観。それらは女性の付属品であって、別に女性とイコールじゃない。そう感じている自分に嫌気がさしてくる。その時の私は女性じゃなくて作り物の人形だった。

ジェンダーレスという言葉が当てはまるのかもわからないが、時にどちらかが強くなる、外見は女性の人。ぐらいが今の私の立ち位置で、多分それが私なのだとここ最近気が付いた。性別はなろうと思ってなるものではないのかもしれないというように肩の力が抜けると、私が隠し持っていた私らしさがあぶり出されてくるらしかった。

この1年ぐらいでやっと性別を無理に背負わなくてもいいというような意識が生まれてきて、好きなものを好きな時に着て、自分がどっちか分かればいいなあと思った。女性と男性の枠組みありきの自分だったのが、自分という枠組みの女性性男性性だけを問題にするようになったと書けば理解してもらえるだろうか。

今日は女の人が入ってきたぞとかちょっと雄々しさがあるなとか自分の中だけで自分の変化に気が付いて言葉に出来た時には、私という曖昧なものの外枠を線でなぞったような、そんな気持ちになって、自分のことが分かったような気がしてくるのが嬉しかった。着るもの、髪、メイク、香り、考え方、視点、私を構成する私のパーツが明確になっていけばいくほど、私自身の性別という意識、二項対立のジェンダー観は和らいでいった。

スカートが穿きたい私もズボンが穿きたい私もどちらも私だって、思うことが出来るようになった。

男の子みたいな刈り上げじゃないショートカットにパンツスタイルの私のことも愛せるようになった。性別が奇妙に交わっているとか男の子に成りたいわけじゃない私の、おそらく女性である私がかっこよさを目指すことを自然のものだと思えるようになってきた。自然というのは大げさかもしれないけれど、この世の中に存在しうる人の選択肢の一つとしての私ぐらいには思えるようになった。

それでも、主語の大きい対立があれば、自分がどちらの立場なのかを真剣に考えてしまうし、自分の立場から考え始めているので大体ホットな議論は終わっていることが多い。ちょっと前でいうと献血の話とかたびたび繰り返される少年ジャンプ問題とか。乗り遅れた寂しさみたいなのはあるのだけれど、別にそんなに深刻な問題じゃないんじゃないかと思いはじめてきた。今処理しきれていないのは、外見を見て女の人の意見が欲しいと言われる時にめちゃくちゃ申し訳ないと思う気持ちぐらいだ。

女性がどう考えているかも、男性がどう考えているかも、私がどちらであったとしてもどちらも知りたいし、その上で私を育てていきたい気持ちがあるから、結局私はどちらの立場も考えるはずなのだ。いつか即物的に主語が背負えないデメリットぐらいデメリットに感じないといえる日が来るはずなのだ。

私は今はこんな風に自分のジェンダーを思っているけれど、価値観のアップデートは怠らないつもりだから、いつの間にか変わっていくことも、どうしようもない寂しさにたえられない日も来ることだろう。アップデートが間違って退化することもあるかもしれない。

好きな人というのか分からないけれど、死ぬ時を見届けたい友人だっているし、私が恋愛をしないと決まったわけじゃない。性別がグラデーションだっていう話をしておいて、女の人はやっぱり綺麗でたまらなく好きだとかいうかもしれない。そんな振れ幅も含めた私なのだと思うことにしている。そんな私の一歩。

私の言葉が届く限りのあなたに向かって、私は何時までもまっ白なましろの話をしよう。私を呼んでくれるあなたに精一杯の私をぶつけたい。




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