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ノスタルジア

目覚めると、おもむろに地球の方角に目を向ける。
漆黒の闇に、ぽっかりと浮かぶ、
青や緑、白のマーブル模様の地球。
その美しさに、しばし見惚れる。
次第に、郷愁が湧き上がってくる。

彼女は地球で重大な犯罪に手を染めた。
極刑は免れたが、その代わり、月に飛ばされることとなった。
もちろん、地球には二度と帰れない。
それは、死を意味する。

唯一、宇宙服だけは纏う(まとう)ことを許された。
ただし、水や食料は一切ない。
緩やかに、死が訪れるのを待つのみ。

これも、ある種、死刑と変わりないわ。

犯罪を犯したことは、後悔していないと言ったら嘘になる。
だが、そうせずにはいられなかった。
愛していた男、雅人が他に恋人を作り、彼女は体良く捨てられた。
彼と新たな恋人に対する怒りが暴発し、湧き上がる殺意を押さえつけることができなかった。
人を殺めたら極刑に処されることは、容易に想像できる。だからといって、罪を犯すのを思いとどまるほどの余裕がなかった。
彼女は雅人のアパートの近くで、車に乗ったまま待ち伏せし、彼と女がアパートに向かって歩いてるところへ思いきりアクセルを踏んで、車を急発進させた。
車体がぶつかった勢いで2人は宙を飛び、数メートル先のアスファルトに激しく叩きつけられた。
2人とも、即死だった。
無惨に死に絶えた2人を見て、彼女は声高らかに笑った。

(あなた達が悪いのよ!
私は、ちっとも悪くない!)

あの時は、そう思っていた。
だけど、月に飛ばされてしまってから、
こうして地球を眺めていると、
ふつふつと後悔の念が湧いてくる。
自分で殺めておきながら、雅人に会いたくて
どうしようもなかった。

(雅人、許して……。あなたのこと、愛してた、
それなのに、あなたをあんな残忍なやり方で殺してしまった)


彼が恋しくて、ひとしきり泣いた。

(地球に帰りたい。彼のお墓に行って、謝りたい)

涙で、地球の輪郭が霞んで見えた。

数多の生命で溢れる星。
人類と動植物が、地球の恵みによって生かされている。

(奇跡の星だわ)

この広大な宇宙の中で、地球が誕生したのは、
何か途轍もない、大きな力、エネルギーが要因だったのだろう。
何かの宗教を信仰していたわけではないが、
神のような存在によって、地球が生まれたのではないかと思えるのだった。

こうして地球の外側からでも見ない限り、地球の美しさに気づくことはなかった。
地球の写真を見たことはあるが、実際に見た印象とは雲泥の差だ。

それに比べ月は、なんて殺風景なんだろう。
ゴツゴツとした岩があるだけで、水も草花も木々もない、何もない。
地球から月を眺めると、黄金色に発光し、神々しく目に映ったのに。

(私は何てことをしてしまったんだろう。悔やんでも悔やみきれない)

両親も悲しんでることだろう。
老いた両親のことを思うと、何ともやりきれない。


空腹で頭が、ぼうっとしてきた。
かさ張る宇宙服の中で、彼女は身をよじる。
ここに来てから、どれほど時間が経ったのか分からない。感覚としては、4、5日程度だろうか。
人間が飲まず食わずで生存できるのは、せいぜい1週間くらいではないだろうか? 生命力が強ければ、2週間か?
でも、ここで少し長生きしたとしても、全く意味はない。地球への郷愁が募るだけだ。

空腹でも食欲は感じない。
でも、水が欲しい。1滴の水でいいから、喉を潤したい。
彼女は目を閉じ、じっとしていた。



次第に、意識が無くなっていくような感覚がしてきた。1滴の水さえも、どうでもいいような気がしてきた。
でも、その前に、これが私の最期だとしたら、
地球の姿を目蓋に焼きつけたい。
横になったまま、首だけ持ち上げた。
いつもと変わらぬ、白い大気に包まれた地球が
現実のものとは思えない美しさで、目の前に迫ってくる。

(今すぐ、飛んで帰りたい、お父さん、お母さん
親不孝な娘で、ごめんなさい。
今まで、私を愛してくれた人達、ごめんなさい。
自分の命と引き換えに、私は罪を償います)

とめどなく、涙が溢れてくる。
と同時に、意識もまた一段と遠のいていく。

その時、雅人が目の前に現われた。
「雅人、生きてたの?」
少し、寂しげな面持ちで、こちらを見つめてくる。
「雅人、あなたをひき逃げなんてしたから、許してくれるわけないよね。でも、会いに来てくれて嬉しいわ」

やがて、両親も揃って現われた。
慈しみをたたえた眼差しで微笑んでいる。

「父さん、母さん、会いに来てくれたのね、
ありがとう、嬉しいわ、ありがとう」

何だか、眠くなってきたわ。

再び、目を閉じる。

夢を、見た。
夢の中で、彼女は地球に帰っていた。
幸せだった。念願だった地球に帰ることができて。

やがて、1つ大きく、長く息を吸った。
が、その息が再び吐き出されることはなかった。

少しの間を置いて、彼女の心臓が、
ゆっくりと、その動きを止めた。




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