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悲劇の誕生 感想文②
「この二つの衝動をもっとわかりやすくするために、さしずめ一方を夢の世界、他方を陶酔の世界というふうに別々に考えてみるとしよう。37p」
夢、そして陶酔。
アポロが夢の世界で、ディオニュソスが陶酔の世界なわけだが、この二つの違いを私は明確に示すことが出来ない。
しかし、夢というのが個体的なものであることはわかる。
一人一人がもつ極めて個別的なな空間、そういうものだ。
しかし、陶酔
悲劇の誕生 感想文①
「芸術は矛盾をはらんでいる」というのは、経験的に理解できることかもしれない。
人の姿を石に彫り込むことだって、ずいぶんな矛盾である。
固さの中に柔らかさが宿り、静と動が共存するのだ。
絵画は、一瞬を永遠という考えの中に組み込み、洋服や器が美術館に並んでいる様は、実用品が実用されないという異常事態を如実に表す。
美というものが私にはよくわからないが、美術品と呼ばれるものたちが持つ「力
まとまらないまとめ 『道徳の系譜』感想文Ⅶ
まあそんなわけで、私はニーチェに嫌悪されるような人間なのであろうが、まとめがてらニーチェが本書を通して伝えたかったことが何なのか、をここから何となく考えてみたい。
といっても、一言にまとめることなんてできない。
だから何か一つだけメッセージを拾うとするなら、
「この人生に意義などないということを認めろ、そして生きろ」
となるのではないか、とだけ言っておく。
補足だが、この意義とい
虚無への落下、常 『道徳の系譜』感想文Ⅵ
じゃあこんなことをやって一体なにがしたいのだろうか。
というか、この禁欲主義的理想というものの存在理由はなんなのか…答えははっきりと示されている。
これまで人類の上に蔓延していた呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった。そして禁欲主義的理想は人類に一つの意義を提供したのだ!それがこれまで唯一の意義であった。270p
そのまま、そういうことなのである。
目的
禁欲主義は萌えが書く『道徳の系譜』感想文Ⅴ
多分、ここからがようやく本題だ。
第三論文に移る…といいたいところだが、ここで「良心の疚しさを利用した人間たち」についてはっきりと述べておこう。
本書では禁欲主義的僧職者たちという風に記述されているが、その顕著な例がキリスト教の指導者たちである。
さーて第三論文だ。
そもそも良心の疚しさとは、行き場をなくした本能が見出したはけ口なので、本能が押さえつけられれば押さえつけられるほど
力への意志登場 『道徳の系譜』感想文Ⅳ
ここで「良心の疚しさ」というものを思い出してほしい。
私たちを暗い方へ陰気な方へと導くあれは、一体何なのだろうか。
この答は、はっきりと提示されている。
外部に敵や抵抗がなくなったために慣習の狭苦しさと単調さのうちへ閉じ込められた人間は、耐え切れなくなってわれとわが身を引き裂き、追い詰め、齧り、掻き立て、虐げた。自分の檻の格子に身を打ち付けて傷を負うこの動物、この窮乏した者、荒野への郷
良心なんてなけりゃいいのに 『道徳の系譜』感想文Ⅲ
奴隷道徳は「外のもの」「他のもの」「自分でないもの」を頭から否定する。そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。 P47
つまるところ、反感からの否定によって一揆が始まるのだ。
割と想像しにくい気がしたが、
「なんかやだな」
「むかつくな」
から
「こいつはダメだ」
になり、
「あいつはダメだから批判しよう」
に移行することはよくあるだろう。
私だってそ
それなら善も悪もない『道徳の系譜』感想文Ⅱ
まず、第一論文は善と悪の始原から展開されていく。
高貴な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身及び自分たちの行為を「よい」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべて低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。27-28p
ちょっとニーチェの言葉を引用してみた。
ここに書かれているのはつまり、「よい」は高貴と同義であったということだ。
そして、「悪い」
『道徳の系譜』感想文Ⅰ 助走
昨日、『道徳の系譜』を読み終えた。といっても岩波の訳書だが。
いま、ニーチェがちくちく批判しているヴァーグナーの曲を聴きながら左に本をおいているが、何とも急き立てられる思いだ。
それにしてもニーチェは強い。
もうなんか、とにかく圧がすごい。
これまで読んできた専門書の中で圧がないものは皆無といってよいが、文の癖や勢いの強さでニーチェに勝るものはないと思われる。
多分。
でも、なんとか
『エチカ』かんそーぶん6【倫理について】
はあ、ここまででやたらと説明をたくさん書いたので私自身も割と混乱している。
残念ながら私にとってこの媒体はめちゃめちゃ外部だ。
まあそれは置いておいて、急いでまとめに移ろう。
結局、『エチカ』でスピノザが説きたかったことは、
「倫理というものは、神に対する妥当な認識から生まれる」
と言うことだったのだと私は思う。
あ、突然倫理とか言ってごめん。ここまで、我々がどう行動するかを
『エチカ』かんそーぶん5【自由な人へ】
今度は新興宗教の布教用ポスターみたいになったが、これも重要な話である。
先立って感情について説明をしたが、これを読んでいる方は、感情をどのように捉えただろうか?
善のみに向かわせる、つまり完全なほうへとばかり向かわせる感情なら、それは素晴らしいものだろう。
しかしながら残念なことに、感情の種類はそれだけではない。
我々をより不完全なほうへと引っ張ることも多いのだ。それはもう経験と
『エチカ』かんそーぶん4【感情の正体】
さて、ここまで割と長めの布石を打ってきたが、ようやくここからが本番だ。なんか新書にありそうなタイトルになったが、大切なのはここからである。
先ほど、我々は完全にはなれない。といったし、まあ実際にそうなのであるが、我々は無限、完全、永遠を常に志向している。
だから、その志向(自己の有への固執)から生じる我々の行動というのは、その辺に焦点を当てたものになっているはずなのだ。
我々に神が内
『エチカ』かんそーぶん3【永遠と善】
前の投稿で永遠という言葉を(無理やり)出したので、次は、神の永遠性について述べたい。
いや、永遠性というものは神の完全性によって十分に肯定されるため、それについては特に触れない。
ともかく神は無限、完全、永遠であり、我々は有限、不完全、一瞬である。
もちろん、一般的に言う「個々」というものを想定した場合の我々であるが。
しかし、その一般的に言う「個々」としての我々にもまた、無限で
『エチカ』かんそーぶん2【神という自然】
スピノザの思想の出発点となるのが、「神は無限である」という考えだ。
無限であるということは限界がない、つまり境目がないということだ。
だから、ここからが神で、ここからは別物というような線引きが出来ないため、神は自然そのものと言える。
つまり、神にとって自分の外の自然という存在はなく、すべての自然が自身の中にあるのだ。だから神は超自然的な何者かではなく、神は自然の中にいるのである。
スピノザ『エチカ』かんそーぶん1
バールーフ・デ・スピノザは、17世紀オランダに生きた哲学者である。この17世紀というのは、近代科学が著しい発展を始める直前であり、圧倒的力をふるった宗教、もとい神という概念への揺らぎが生じ始めた時代でもある。
スピノザは、そんな時代の中で、科学を持ち上げようとする社会に逆行するかのように「神」を強く肯定する。にもかかわらず、彼は無神論者として教会を追われることとなるのだ。なんとも興味深い。