『エチカ』かんそーぶん3【永遠と善】

 前の投稿で永遠という言葉を(無理やり)出したので、次は、神の永遠性について述べたい。

 いや、永遠性というものは神の完全性によって十分に肯定されるため、それについては特に触れない。


 ともかく神は無限、完全、永遠であり、我々は有限、不完全、一瞬である。

 もちろん、一般的に言う「個々」というものを想定した場合の我々であるが。

 しかし、その一般的に言う「個々」としての我々にもまた、無限で完全で永遠である神が内在しているのだ。

 だから、無限の中にある有限というものはもちろん、有限の中にある無限というものも肯定できる。

 つまり、我々は無限の中にあり、かつ無限を内在させているものの現実的には有限というSFキャラみたいな感じの個物なのだ。


 となると「結局無限じゃん?」ということもできるが、無限という概念を想定した時、滅ぶべき肉体を持つ我々は、有限と言わざると得ないだろう。

 もし何も想定しないなら、何も言えない。

 無限は有限であり有限は無限であるという言説は、緑茶は紅茶だし紅茶は緑茶というようなものだ。

 つまり、結局はどちらも本質は緑茶だが、その他の茶がないと緑茶という名付けがなされなかったように、無限もまた、生者必滅の原則、すなわち現実的に限定された我々個物たちの生によって知覚できるのである。


 少しそれてしまったが、先ほど述べたように無限というものは、神の本質を構成するものである。

 だから、それを分け持つ我々にとって、無限というものは、我々の本質をも構成していると言ってよい。


 繰り返しのようになるが、なぜ神が無限でいられるかというと、外部がないからだ。すべてが内にあるということは全てを把握していることに等しい。

 だから、自身の内にあるものが自身を傷つけることなどありえないのだ。

 それゆえに神は、何物にも存在を阻害されることのない、無限、完全、永遠の存在者であると言える。


 しかしながら、先ほど述べたように、我々は外部というものを知覚する。

 だから、その無限性やら完全性やら永遠性というものを持っているにもかかわらず、十分に表現することが出来ないのだ。

 我々は外部を持っているから。もっというなら、外部の力によって死に至るからである。


 その外部の力というのは、重力だったり空気だったり持続そのものだったり、というか自分以外の自然全部だったりするのだが、とにかく何かしら我々が我々を維持することを妨げるものがある以上、我々は神の無限性を表現しようとしてもしきれず、ただそれを志向することになる。


 その志向を行動に移すと、寝て起きて食べ飲み動き稼ぎ学び子を成すなどなど、我々の営みそのものになるのだ。だからスピノザは、この無限性への志向を「自己の有への固執」と呼び、我々の本質であるとした。


 本質というものは定義が厄介であるが、ここではコトバンクを信用して「存在するものの基底・本性をなすもの」をそう呼ぶことにした。

 それでいくと、この自己の有への固執とやらは、我々にとって欠かすことのできないものであるし、我々はこれを根底に置きながら生活をつづけることになる。


 と、なると。我々は、何を最も尊ぶだろうか?

 自己の有が「最優先事項よ」な世界で私たちが求めるもの、それは自分を保ってくれるものだろう。


 つまり、我々は常に自己の有に対して益のあるモノを尊び選び取る。

 そして、それこそが「善」であるとスピノザは言う。

 だから、善というものは全員が目指すある一つの目標などではなく、各人が個別に目指すものなのだ。


 例えば、お金をたくさん持つことで自身の存在を保とうとする人にとって、お金を稼ぐことが善となるし、

 逆に貧乏でも他人から感謝されることを生きがいにしている人にとって、他者から必要とされることが善となる。


 悪はこれの反対で、自己の有を妨げる恐れのあるモノをそう呼んでいるのだ。

それでいくと、善を享受するのを妨げるものを悪と呼んでいるとも言えるだろう。

 だから、善悪というものは人の数だけ存在する。なんだかシンプルすぎる気もするが、そういうものなのだ。