禁欲主義は萌えが書く『道徳の系譜』感想文Ⅴ
多分、ここからがようやく本題だ。
第三論文に移る…といいたいところだが、ここで「良心の疚しさを利用した人間たち」についてはっきりと述べておこう。
本書では禁欲主義的僧職者たちという風に記述されているが、その顕著な例がキリスト教の指導者たちである。
さーて第三論文だ。
そもそも良心の疚しさとは、行き場をなくした本能が見出したはけ口なので、本能が押さえつけられれば押さえつけられるほど、良心の疚しさというのは増してくる。
というか、良心の疚しさを自分から求めに行くのだ。
つまり、禁欲主義的理想を掲げるキリスト教に染まれば染まるほど自分を痛めつけたくなるのである。
救いを求め自らを律そうと努めるたびに、良心の疚しさに囚われ傷だらけになり、その苦しみを癒そうとまた自分を律そうと努める…という風なサイクルが容易に想像できる。
また、ニーチェは
僧職者は『反感』の方向転換者である。208p
とも言う。
苦しむ人々は、その苦しみの原因を求めるのだ。
そしてその原因に対して反感を抱く。
かつて、ユダヤ教徒たちがそうだったように、反感…ルサンチマンは現れる。
しかし、ユダヤ教徒たちの反感は外へと向いていた。というか、本来外へ向くはずのものである。
しかし、それが「方向転換」させられるということは…そう、また内へ向かうということだ。
「私は苦しんでいる、それは誰かの所為に違いない」とすべての病める羊は考える。しかし彼の牧者、禁欲主義的僧職者は彼に向って言う、「私の羊よ、まったくその通りだ!それは誰かの所為に違いない、だがお前自らこそその誰かなのだ、それはお前自らの所為なのだ、お前自らだけの所為でお前はそうなっているのだ!」と……。210p
こんな風に僧職者はやってしまうのである。
こうなればもう、何が原因なんだかサッパリわからない。
実際苦しみの原因が、ただの胃潰瘍だったとしても貧血だったとしても自律神経に問題があるだけだったとしても、それは「自分の所為」となってしまうのだ。
もっと言えば部下の失敗も、株が暴落したのも「自分の所為」である。真の原因を見失い、「自分の所為だ…」と良心の疚しさを一層募らせるのである。
外へ行くはずのものが全部中で詰まってしまっているのだ。
こうして、あたかも自分が罪人であるかのような錯覚に取りつかれ、自分で自分を罰し始める。
「苦しみの原因を恨んで痛めつける」というのはユダヤ教と変わらないが、自分がその原因である限り、苦しみは延々と続くのである。
そうやって迷い呻きつつ、まだ苦しみの原因を痛めつけるために苦しみを欲すのだ。
もうどうしたらいいかわからない。