悲劇の誕生 感想文①

 「芸術は矛盾をはらんでいる」というのは、経験的に理解できることかもしれない。

 人の姿を石に彫り込むことだって、ずいぶんな矛盾である。

 固さの中に柔らかさが宿り、静と動が共存するのだ。

絵画は、一瞬を永遠という考えの中に組み込み、洋服や器が美術館に並んでいる様は、実用品が実用されないという異常事態を如実に表す。


 美というものが私にはよくわからないが、美術品と呼ばれるものたちが持つ「力」みたいなものはそういう矛盾から生じているのではないかとは思う。


 ニーチェは、処女作である『悲劇の誕生』の中で、しばしば「ディオニュソス」と「アポロ」の二神を提示する。これが、本書の中では「矛盾」の源泉なのである。


 まず一般的な話をすると、アポロというのは、光、予言、医術、牧畜、音楽などなど地上における様々なものを司る、ギリシャ神話の太陽神アポロンのことだ。

 そして、ディオニュソスというのは同じくギリシャ神話における酒神である。バッカスと言われることもあり、狂信的な女性信者たちを連れて、歩き回っていたという話が有名だ。


 さて、矛盾というからには、この二神は違っていなければならないわけだが、ネットで調べると、「アポロは静的で端正、ディオニュソスは動的で狂気的」みたいなことが書いてあった。

 そんな簡単にまとめられていれば『悲劇の誕生』は支離滅裂だの恥だの言われなかっただろうと私は思う。

「造形家の芸術であるアポロ的芸術と、音楽という非造形的芸術、すなわちディオニュソス的芸術とのあいだには、ひとつの大きな対立がある。この非常に違った二つの衝動は、互いに並行してすすんでいく。たいがい、公然と反目し、おたがいが刺激となって、あの対立の戦いが種切れにならないように、それぞれが一段とがんこな子供をつねに新たに生み落としてゆく。36p」

 と、この二神についてニーチェは述べる。

 これを見る限り、アポロ的芸術とディオニュソス的芸術はそれぞれ独立して存在しているように見受けられる。

だが事態はもっとややこしい。

 なんというか、アポロ的芸術の中にも、ディオニュソス的芸術の中にもそれぞれ矛盾があるような気がするのだ。

アポロの芸術は造形的、つまり確固たる現象として存在しうる個体なのである。

 しかし、一方のディオニュソスは非造形的だ。

 確固たるものとしてそこに見えることがない。

 個体としては識別できない、そういう芸術なのである。


 造形的なものと非造形的なものは絡みあう。

 造形的なもの…例えば茶器などが壊れれば、粉々になり土と一体化しうる。

 個体は全体となりうるし、全体はまた個体となりうる。

 アポロ的なモノはディオニュソス的でありうるし、ディオニュソス的なものはアポロ的でありうる。


 だから、ディオニュソス的なものがこうで、アポロ的なものはこう!と叫ぶことはできない。