それなら善も悪もない『道徳の系譜』感想文Ⅱ

 まず、第一論文は善と悪の始原から展開されていく。


高貴な人々、高位の人々、高邁な人々が、自分たち自身及び自分たちの行為を「よい」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これをすべて低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賤民的なものに対置したのだ。27-28p

 ちょっとニーチェの言葉を引用してみた。

 ここに書かれているのはつまり、「よい」は高貴と同義であったということだ。

 そして、「悪い」は低級と同義であった。

 だから、誰しもがなしうる善などというものはなく、高貴な人々がすることは全部善で、低級な人々がすることは基本的に悪だったのである。


 この個所を読んだ私は一瞬文句を言いたくなった。

 だって、出自によって自身の行為の善悪が決まってしまうなんて、ひどい話じゃないか。


 しかし、よく考えてみると別にこれでも構わん気がする。

 善悪が地位によって定められているといっても、善悪が地位そのものを指していたのなら別に不自由はないのである。


 しかし、この善悪の概念にダークホースが飛び込んできたのだ。

 そう、ユダヤ教だ。(そういえばニーチェは旧約聖書は褒めていた気がするな。)


 ユダヤ教、というか僧職者たちというべきか。


 まず、貴族と僧職者が常に戦ってきたことは、我が国の歴史を見ても明らかである。

 貴族には富も武力もあったし、それを良しとする価値判断があった。

 精気に溢れる健全な肉体、それを維持する冨、自由で快活な行為そのもの、つまり「強さ」が彼らにはあった。


 しかし、奴隷として踏みつけられ、蹴飛ばされてきた僧職者たちは、すべてを持ちえなかった。

すべてを持ちえない者が、一体どうすればすべてを持ちえる者に勝てるのか。


 答えはこれだ。

「持っていない方が勝ち!!!」

 とすれば良いのである。大阪じゃんけんみたいなものだ。

 「負けるが勝ちよじゃんけんぽい!」と、僧職者たちは勝手にやり始めたのである。

「惨めなる者が善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者が善き者である。悩める者、病める者、乏しき者、醜き者こそ唯一の敬虔たる者であり、唯一の神に幸いたる者であって、彼らのためにのみ至福はある。―これに反して汝らは、汝ら高貴にして強大なる者よ、汝らは永劫に悪しき者、残忍なる者、隠逸なる者、飽くことを知らざる者、神を無みする者である。汝らは永遠に救われざる者、呪われたる者、罰されたる者であろう!」 41p

 予言かよ。


 と突っ込んだ私は割と正しかった。


 ここから徐々に世界は、善き者を悪しき者へと、善き行為を悪しき行為へと変化させてゆくのである。


これが「ユダヤ人的価値転倒」と言われるものだ。

 そしてこのユダヤ人的価値転換から、「道徳上の奴隷一揆」の歴史が刻まれてゆくのである。

 念のため言っておくが、価値転倒と一揆は別物である。


 価値転倒を土台にしていることは確かだが、この一揆が起こるためには然るべき手順が必要である。

 パスポートを取りに行くときみたいに。


  この場合、反感(ルサンチマン)→ルサンチマンそのものが創造的になる、というのが手順である。