力への意志登場 『道徳の系譜』感想文Ⅳ
ここで「良心の疚しさ」というものを思い出してほしい。
私たちを暗い方へ陰気な方へと導くあれは、一体何なのだろうか。
この答は、はっきりと提示されている。
外部に敵や抵抗がなくなったために慣習の狭苦しさと単調さのうちへ閉じ込められた人間は、耐え切れなくなってわれとわが身を引き裂き、追い詰め、齧り、掻き立て、虐げた。自分の檻の格子に身を打ち付けて傷を負うこの動物、この窮乏した者、荒野への郷愁に憔悴した者この阿呆が、憧憬にやつれ絶望に陥ったこの囚人が、「良心の疚しさ」の発案者となったのだ。128-129p
つまり、社会や平和によって保護され安寧な生活を得たはずが、それに耐え切れない諸本能…自由を欲し自由に振舞う本能がまだ人間には残っているわけだ。
しかし、それを実際に発散すると安寧な生活がおじゃんになってしまうため、そうならないために諸本能が持つ力をすべて内への攻撃に使おうとする。
その攻撃によって傷ついた状態が「良心の疚しさ」の正体だと言うことだ。
無理やり潜伏させられた自由の本能が、自分の上にのみ放出されている状態…なんとも悲惨な話だ。
ちなみにこの自由の本能というやつが、「力への意志」であるとニーチェは語っている。
しばしば悪い例と一緒に使われがちな力への意志だが、決して善悪ではかれるようなものではないということがここでわかる。
だって、「本能」なのだから。
さて、この本能を押さえつけた結果、人間は良心の疚しさとやらに苛まれることになったわけだが…それもある程度は仕方ないのではないかと私は思うし、多分ニーチェもそう思っている。
何故なら、もし人間がこの自由の本能を思いっきり解放してしまったなら、今の社会はめちゃくちゃなことになってしまうからだ。
「自由の本能を完全解放せよ」と言われたら、我々は再び荒野に帰るしかなくなるのである。
だから、ニーチェは別に良心の疚しさそのものを消し去りたいとか、心の底から憎くて仕方ないとか、そういうことは考えていないのではないかと、私は思う。
ただ、この良心の疚しさを利用した人間たちによって、さらに事態が悪くなってしまったことを嘆いているのだ。