『エチカ』かんそーぶん5【自由な人へ】

 今度は新興宗教の布教用ポスターみたいになったが、これも重要な話である。

 先立って感情について説明をしたが、これを読んでいる方は、感情をどのように捉えただろうか?


 善のみに向かわせる、つまり完全なほうへとばかり向かわせる感情なら、それは素晴らしいものだろう。

 しかしながら残念なことに、感情の種類はそれだけではない。

 我々をより不完全なほうへと引っ張ることも多いのだ。それはもう経験として多くの人が知っていることであろう。


 だから、我々はただ与えられるままに感情を受け取っていては、完全なほうへ行ったと思ったらまた不完全なほうへ引っ張られ、それを繰り返していつまでも振り回されることになる。

 それは、感情に隷従していると言っていいだろう。


 ゆえに、私たちが自由になるには、感情から解き放たれなければならないのだ。

 自由というものが、完全や無限や永遠を含むと考える限り。神以上に自由なものなどないと自覚する限り。


 では、感情から解き放たれるには何が必要か。


 それは、AIに服従することである。


 間違えた、それは、外部をなくすことである。

 言い忘れていたが、そもそも感情とは混乱した物である。我々はそれらに対して受動的でしかあれないのだから、当たり前のことだが。

そして感情は、観念と対象の不一致から生じる。受動的でしかあれないと言うことは、こちら側に受け取る用意、つまり十分な観念がないということである。


 ひとつ例を挙げると、「付き合ってみたら思っていたのと違って不満」というよくある話は、ある人物について思い浮かべていること(観念)、実際のその人(対象)、が一致しておらず混乱しているという状態だ。

 だから、「えっ思っていたのと違う」はこうした観念と対象の不一致から起こる。


 そして、混乱をきたす観念というものは、常に常に外部からやってくるのである。何故なら、内部にあるものは常に観念と対象が一致するからだ。


 例えば、目の前に人間がいたとする。

 そうすると私の中に「人間」という観念が生じるが、私も人間なので、対象が人間であるということに対して何の感情も抱かないし、そもそも観念の誕生を意識することすらない。


 逆に、人間っぽい何かがいたとしたら、私の中に「人間」という観念が生じるとともに、「猿」「犬」「エイリアン」など自身の内には認められない観念が生じ、これが混乱を巻き起こす。

 私は多分それを、恐れたり面白がったりするだろう。


 ところで、観念と対象が一致しているということを妥当な認識と呼ぶ。

 そしてその妥当な認識は、神の中にあるそれと同じものだ。神はすべてを包括するため、観念と対象が一致しないはずがない。

 だから、妥当な認識を持つということはそれ自体で神に近づく、つまり完全に近い状態になるということになる。これは、前述の通り善である。


 では、外部の原因を取り去るために、具体的に何をすればいいのかというと、それは、あらゆる事態を内にあるものとして理解することである。


 つまり、自身の中にあらゆる物事についての妥当な認識をもてば、外部などというものは存在しなくなるということだ。

 だがそんなことは無理だ。

 外部があるから妥当な認識が出来ないのに、妥当な認識を以て外部をなくそうということは、それ自体でなんか無理ぽな空気がある。だから、我々が真の自由人になるのはめちゃめちゃ難しいのだ。


 じゃあどうすればいいのか、と聞かれれば、それはやはり神の内に我々があり、我々、いや自然そのものが神の延長であるということを意識するのが一番いい。

 それを意識したなら、神が我々の髪の毛一本に至るまで妥当な認識を持っていることに気づくだろう。何故なら、我々は神の内にあるのだから。

 そうなると我々、いや、自然は必然性を帯びてくる。神という秩序の内に我々がいるということは、神によって定められているということに等しいからだ。


 そして、すべてが必然であるということは、我々を妥当な認識の方へと導く。

 あらゆる物事を必然というくくりの中に入れたなら、その原因はすべて神にあると言うことが出来る。

 すべての原因が神にあり、それゆえにすべては必然であると言うことを認識したなら、我々を混乱させるものは激減するはずだ。

 いま巷で流行している疫病について私は何も知らないに等しいが、

「神が定めたことだししょうがない。日本政府の対応がアレな感じなのもしょうがない」

 と考えれば、キレまくって憤死ということもしないでいられる。


 つまり、我々を自由へと導くもの、それは神が自然そのものであると言うことを意識することだ。

 そして、神即自然というのは妥当な認識なわけだから、これは神の認識そのものにつながる。

紛れもなく、善である。