『エチカ』かんそーぶん2【神という自然】

 スピノザの思想の出発点となるのが、「神は無限である」という考えだ。

 無限であるということは限界がない、つまり境目がないということだ。

 だから、ここからが神で、ここからは別物というような線引きが出来ないため、神は自然そのものと言える。

 つまり、神にとって自分の外の自然という存在はなく、すべての自然が自身の中にあるのだ。だから神は超自然的な何者かではなく、神は自然の中にいるのである。


 宇宙が始まる前の状態を、思い浮かべることが出来るだろうか。

 多くの人が「宇宙が始まる前には宇宙があった」と言うが、そういうことではなく、その宇宙が始まる前にあった宇宙が始まる前にあった宇宙が始まる前にあった宇宙が……と、とにかく果てしなく遡った先にある状態を、思い浮かべることは容易ではないはずだ。


 何故なら、「何もないが何かあったはず」と答えるしかないからだ。

 常識的に考えると、いや非常識な考え方をしても、「何もないところから宇宙が生まれた」と結論付けるよりは、「何かが宇宙を産んだ」と考えるほうがナチュラルだろう。

 スピノザ的にはこの「何か」が神なのである。

 産み出した、という言葉で片づけるのは適切ではないかもしれない。神は自然そのものであるのだから、常に湧き出ているようなイメージのほうが正しい。


 それから「神」というと、なにかしら人格のようなものを持っていて、我々と同じように考え目的のために行動するようなものを思い浮かべる人が多いだろうし、実際に多くの宗教は神が何らかの目的のために動いていると説く。

 ちなみに私が知っている新興宗教は「神は地上を天国みたいに素敵な場所にしたいと考えていて、そのために人間を使っている」という、恨みこそすれ信仰なんてとんでもないと叫びたくなるような目的論的神を想定している。

これに対しスピノザは、


「もし神が目的のために働くとすれば、神は必然的に何か欠けるものがあってそれを欲求していることになる」102p


 と述べて反論している。

 つまり、目的論的神を想定することは、同時に神の完全性を否定していることになるのである。


 ここまでをまとめると、神とは湧きいづる自然そのものであり、外部というものを持たない完全な存在、ということになるだろう。

 外部がないということは、すべてが神の内にある。

 繰り返しになるが、我々にとって神とは、決して超越的存在などではなく、内在的存在なのだ。


 また、神が完全であるなら、神を内に持つ我々も完全と言いたくなるだろうが、残念ながらそうではない。

 まずスピノザは、我々、というか神から産み出された個物についてこう語っている。


「個物は神の属性の変状、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態である」81p


 つまり我々は神の属性の変状、属性とはそのものの本質を構成するものであるから、我々は神の本質を構成するものの表れということになる。そ

 して、それは、神の在り方を表現できるということだ。だって、神の本質を構成するやつの表れだし。我。


 ではなぜ、完全である神の本質を分け持つ我々が完全ではありえないかというと、それは我々と神の決定的な違いによって説明できる。


 全体としての神には内しかないが、個物としての我々には外があるのだ。それは他の個物があるということからわかる。


 それで、先ほど述べたように神が「外部をもたない」ことによって完全であるなら、外部を持つということはそれ自体で我々の不完全性を肯定することになる。

 だから私たちに外部というものがある限り、完全になどなれないのだ。それこそ、永遠に。