『エチカ』かんそーぶん4【感情の正体】

 さて、ここまで割と長めの布石を打ってきたが、ようやくここからが本番だ。なんか新書にありそうなタイトルになったが、大切なのはここからである。


 先ほど、我々は完全にはなれない。といったし、まあ実際にそうなのであるが、我々は無限、完全、永遠を常に志向している。

 だから、その志向(自己の有への固執)から生じる我々の行動というのは、その辺に焦点を当てたものになっているはずなのだ。

 我々に神が内在している限り、全く違う道をずんずん突き進んでいるということはあり得ない。


 だから、そもそもの行動というのが、無限、完全、永遠に近づくためにあるということになる。

 では、その無限、完全、永遠といったものに近づけばどうなるのかというと、神の属性の表現、つまり神の本質を構成するものを自身に認めることが可能になるのである。


 つまり、我々は我々に内在する神の認識を最終的な目標として、自ら選定した善を行うのだ。


 そうなると、善とは即ち、神の認識を目指すものであると同時に、より完全に近づいていくための手段となりうるもの、ということになる。


 では、そうした善悪の判定はどうやって為されるかというと、そこには感情というものが佇んでいたりする。


 私たちは、善が善であるがゆえにそれに向かって努力するわけではなく、それに向かって努力しているからそれを善と呼ぶのである。

だから、それに向かわせる何かが必ず存在しており、その一つが感情なのだ。


 「感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の刺激状態、また同時にそうした刺激の観念であると解する。」202p


 スピノザは感情についてこう語っている。

 少々だるいので、感情とは、我々にある刺激が与えられたときに生じる観念であると私は位置づけておいた。

 観念はなんか、ある対象について我々が思い浮かべるものだと私は考えてしまっている。間違っていたら許してにゃん。

 だから、ある対象について観想するときに与えられる刺激によって生じる観念が、我々を完全なほうに向かわせるか、不完全なほうへ向かわせるものかで、我々は善悪を判断するのだ。


 ところで、完全なほうへ向かわせる刺激の観念とは、我々が自己の有を保つことに役立つもの、即ち我々の身体の活動能力を増大してくれるものということにしておいていいだろう。それは「喜び」と呼ばれ、あらゆるプラスの感情の根源として扱われる。


 逆に、我々の身体の活動能力を減少させるもの、すなわち自己の有を保つことを阻害することで、不完全なほうへと我々を移行させる刺激は「悲しみ」と呼ばれる。この二つが我々の感情の基礎であるとスピノザは考えているようだ。


 『エチカ』では、あらゆる感情が網羅的に説明されているが、その中の一つに「愛」がある。


「愛とは外部の原因の観念を伴った喜びに他ならない」221p


 つまり、外部の何かを観想した時に生じる、我々をより完全なほうへと移行させる刺激の観念であるということだ。


 何ともあっさりとした解釈だが、これはかなりわかりやすい話だ。

 「好きな人を思い浮かべるときに気分が良くなる」というのは

 「好きな人(外部の原因)を思い浮かべる(自身の中で観念を形作りそれを想う)ときに、気分(身体機能の及ぶ範囲)が良くなる(完全なほうへの移行)」

 とすれば説明がつく。