悲劇の誕生 感想文②

「この二つの衝動をもっとわかりやすくするために、さしずめ一方を夢の世界、他方を陶酔の世界というふうに別々に考えてみるとしよう。37p」

 夢、そして陶酔。

 アポロが夢の世界で、ディオニュソスが陶酔の世界なわけだが、この二つの違いを私は明確に示すことが出来ない。

 しかし、夢というのが個体的なものであることはわかる。

 一人一人がもつ極めて個別的なな空間、そういうものだ。

 しかし、陶酔とは全体的なものである。

 それはすなわち、その個体的夢が崩れ去って初めて手に入るものだということだ。

「すなわち、真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾に満ちた者として、自分を絶えず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感に満ちた仮象を必要とするという仮説である。[中略]この根源的一者の作り出した仮象を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な「現実」として感ぜざるを得ない仕組みになっている。60p」

 仮象、つまり夢のことだが、ニーチェはこれを「救済」のためにあると主張しているのだ。

「我々は夢の世界を観照するということ自体が深い内面的な快感を持っているのだと結論せざるをえない。59p」

 多分、夢の中だということを自覚して行動することに快感が伴う、というようなことを言っているのだろうと思う。

 夢の中だということを自覚する、ということは、夢の外に意識があると言っていい。

 夢を夢でなくしてしまうことによる恍惚、陶酔…そうしたものが「救済」と呼ばれているのだ。


 それに対して、現実は苦しい。

 いや、現実というものを自覚して行動することが苦しい、というのが正しい。

 現実を現実でなくしてしまうことはできないのだ。

 それが現実である限り、それそのものに救いなんてないように思われてならない。
 

「その苦しみを根源的一者も同じように抱いているのではないか」というのが、上記仮説の根なのだろう。


 根源的一者が現実への苦しみから、仮象の中で歩きまわっているとしたら、我々はその仮象の中に登場するキャラクターに過ぎないのだ。

 しかし、その仮象を我々は「現実」と呼ぶ。


 「え、最悪では?」と一瞬思ったのだが、根源的一者がそうしたように、我々にもまた仮象と陶酔という救済が残っている。

 仮象の中に身を投じ、それを打ち壊すことによって快感を得ることが出来るのだ。


 しかし、ニーチェの仮説でいくと、そもそもこの世界は仮象なのである。

 眠ることなく快感を得ることだってできるはずだ。

 仮象を打ち砕く、破壊的陶酔…それには、アポロ的夢をディオニュソスが破壊しなければならない。

 そしてそれをやってのけるのが、主題である「悲劇」ということだ。


 ただし、これはあくまでその場しのぎの陶酔であると私は思う。

 悲劇についての詳しい説明は今回時間の関係上()避けたいのだが、それを避けても悲劇というのは劇であるから、その場で仮象が打ち立てられ、破壊され、それを見ている人々が陶酔するというだけであって、現実という仮象がそこで壊されることはない。


 晩年のニーチェが我を失っていたことは有名な話だ。

 少し強引かもしれないが、私はこれに紐づけて、ニーチェは我々が「現実」と呼ぶこの世界を仮象とみることによって破壊してしまったのではないか、という説を唱えてみたい。


 悲劇の主人公となって舞台に躍り出たニーチェは、真っ先に悲劇という名の仮象を自覚してしまった。

 つまり、既にそこにあるアポロ的仮象に対し、ディオニュソス的衝動によりそれが仮象であること自覚してしまうことで、狂気に呑み込まれてしまったのではないかということだ。

 そして、彼は根源的一者と同等のとろけるような陶酔の中で逝ったのではないか、ということだ。

 アポロとディオニュソス、二神の祝福を受け、自身が芸術となるこの矛盾ともいえる事態を観想しながら、逝ったのだとすれば、こんなに幸福なことはないだろうと思えてならない。