良心なんてなけりゃいいのに 『道徳の系譜』感想文Ⅲ


奴隷道徳は「外のもの」「他のもの」「自分でないもの」を頭から否定する。そしてこの否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。 P47

 つまるところ、反感からの否定によって一揆が始まるのだ。


 割と想像しにくい気がしたが、

 「なんかやだな」

 「むかつくな」

 から

 「こいつはダメだ」

 になり、

 「あいつはダメだから批判しよう」

 に移行することはよくあるだろう。

 私だってそんな感じだったりする。


 とはいえ、そんな表立っての叩くことはできないし、暴力に訴えることはできない。

 昔のことだから、今よりも行動を起こすことは難しかっただろう。


 だから、彼らの一揆というのは、あくまでも想像で叩くということになる。

 自分と違って健康で、お金持ちで、強い人たちを頭の中でめためたに叩くのだ。

 自分たちが転倒させた価値を根拠に据えて。


 さて、これまでの記述から、あることがわかる。

ユダヤ教にとっての善悪において、善よりも悪が先立つということだ。

 まず、この悪があるから反感を抱き、創造的になり、教団はいい感じに存続するのである。


 いい感じに存続する…といっても、それがどれほど難しいことかは想像するのも大変だ。

 2000年という時を、彼らは悪への憎悪と、一揆という名の復讐によって乗り越えてきたのである。


 大体第一論文はこんな感じの内容であった。

 次の第二論文であるが、これは主に「良心」の正体と、それが大きくかかわる「病気」の話である。


 まず、この良心というものをニーチェ的に言い換えると、「支配的本能」ということになるらしい。


 ぶっちゃけ「は?」という感じであるが、これは考えてみれば単純な話だ。


 人間は、人間である前に動物である。

 だが、人間は集団で生活をし、言語を操る。

 特別なテレパシーもない中、荒野から抜け出した我々は、約束者にならなければならなかったのだ。


 動物は本来多くのことを忘れるものである。

 しかし人間は

「忘れたくないよ―――――!」

 という意欲によってなんとか忘れないでいられるようになっている。

 これが集団生活などでも大いに役立ってくるわけだ。


 さらに、約束を記憶するだけではなく、約束をなしうるものになるためには、未来を予測することが必要だ。


 つまり、約束を為すために、その約束が自分に何をもたらすか、何故その約束を守らないとならないのか、それを守るためにどう行動するか、という思考の段階が必要である。

 そうした段階を踏んで、ようやく未来を「保証」し、約束者となることが出来るのだ。


 そして、この保証を我々は「責任」という言葉で呼んでいる。

 そして自己自身において責任を果たすそうとすること、つまり自身をコントロールしようとすること、それこそが「支配的本能」であり、「良心」なのだ。


 この時点での良心は、決して悪いものではない。約束に由来する自負心、それがここで言う良心だ。