まとまらないまとめ 『道徳の系譜』感想文Ⅶ
まあそんなわけで、私はニーチェに嫌悪されるような人間なのであろうが、まとめがてらニーチェが本書を通して伝えたかったことが何なのか、をここから何となく考えてみたい。
といっても、一言にまとめることなんてできない。
だから何か一つだけメッセージを拾うとするなら、
「この人生に意義などないということを認めろ、そして生きろ」
となるのではないか、とだけ言っておく。
補足だが、この意義というやつは、「真理」とかいう名前で呼ばれるやつらしい。
キリスト教が与えた意義とは、神という唯一絶対の真理だったわけだ。
ところで、唯一絶対の真理を求めるという姿勢は、現在の科学の基本姿勢でもある。
断言は危ないか。
だが、神に代わる何かを発掘しているように私には見える。
近代以降、キリスト教が少しずつ信仰を失うと同時に、常にそこにあったはずの「真理」も薄れてきてしまった。
何故キリスト教に対する信仰が薄まったのか、というとまあ理由は複数あるだろうが、共同体の解体であったり科学の発展であったり他国の文化のとめどない流入であったりするだろう。
何はともあれ、真理が薄れるということは、同時に意義にも消失の可能性が出てきてしまうということだ。
だから慌てて代替品を探しているのだ。
意義がなければ、また人間はいわれのない苦しみに苛まれることになる。
それにしても、その唯一絶対のはずであった「真理」が、薄れゆくようなものであるなら、そもそも真理に価値などあるのだろうか。
これについてニーチェは、
真理の価値は試みにひとたびは問題とさるべきであろう253p
と述べている。
もし、もし真理に価値がないなら、また生きる意義や苦しむ意義とやらに苦しむことになるだろう。
それが無を欲するよりマシなのかどうか、私にはわからない。
ただ、虚無へ虚無へと進んでいっても、あるのは虚無だけである。
どうせ一生暗闇で迷い続けるなら、多少グロテスクなものを見ることになるとしても、生と向き合いながら血まみれになる方が良いのかもしれない。
生かされているのではなく、勝手に生きている自分を認められる日が来たなら、なんだか楽しい世界を見られるような気がしてきた。
あとがき
なんだか釈然としない感じの終わり方で本当に申し訳ありません。これでも頑張って読んだし書いたと思うのですが、いかんせんこれを書くのに2週間くらいかかってしまっているので、途中抜けなどがある可能性も高いです。更に、これを読んでも多分道徳の系譜のこともニーチェのこともよくわからないと思います。そのうえ、何度も読みすぎてマヒしてしまったのか、これがすじの通った文章であるのかもわかりません。
こんなありさまですが、、とにもかくにも読んでくださってありがとうございました。
追伸:各投稿のタイトルは、その時考えたことを文字化しているだけなので、内容とほぼ関係がないです。