『道徳の系譜』感想文Ⅰ 助走

 昨日、『道徳の系譜』を読み終えた。といっても岩波の訳書だが。


いま、ニーチェがちくちく批判しているヴァーグナーの曲を聴きながら左に本をおいているが、何とも急き立てられる思いだ。


それにしてもニーチェは強い。

もうなんか、とにかく圧がすごい。

これまで読んできた専門書の中で圧がないものは皆無といってよいが、文の癖や勢いの強さでニーチェに勝るものはないと思われる。

多分。


でも、なんとかかんとか読み終わったので、感想などをつらつら書いてみようと思う。

ちなみに岩波書店の木場深定訳を読んだ。

それにしても、ニーチェは色々なところから色々なものが出ているようだが、その分購入には慎重になってしまう。

さて、本格的に感想を書く前に、本書を読む前の私のニーチェスペックを晒すと、数値にして14くらいである。

上限は特にない。

つまり、ニーチェ講義を受けていたはずなのに、ツアラトゥストラを通して読んだはずなのに、びっくりするくらい覚えていなかったということだ。


どうやらあの講義で、私はマゾッホに気を取られすぎていたようである。

大体の受講者がもう忘れ去ったであろうマゾッホ、過激でシュールなマゾッホ、ニーチェがちょっぴり憧れていたマゾッホ、皆さんはもう彼の作品を読んだだろうか?


あれはなかなか面白いので是非読んでほしい。難しいことはそんなに書いていない(私の読みが浅いだけかもしれないが)ので、さらっと読んでさらっと忘れられる感じの本だ。

だから今の私は、マゾッホのことすらよく覚えていない。割と救いがたい感じだ。


しかしそんな私でも、ニーチェがキリスト教をめっっっちゃ嫌っていたことは覚えていた。

何というか、こぼした牛乳を拭いたあとの雑巾のような扱いをしていたので、やたら印象深いのだ。


だから、この『道徳の系譜』でもキリスト教批判がいっぱい出てくるのだろうと想像していた。

しかし、現実はあっさり想像を超えてきた。


キリスト教のみならず似たような性質を持つ宗教…というかもはや宗教全部に対し、こぼした牛乳を拭いた後6時間放置した雑巾のような扱いをする。

臭い臭いと騒ぐ。

もう耐えられないのだ、と彼は雑巾を捨てようとするが、それがうまくいかなかったことは、本書の存在により証明されている。


ちなみにこの本は第一論文から第三論文まであるのだが、個人的に第三論文の最後がかっこよくて好きだ。

でもいきなり第三論文沼について早口でまくし立てると、それはただのオタ活になってしまい感想文をかく意味がなくなってしまう。

ということで、まずは第一論文から順に書いていこうと思う。