虚無への落下、常 『道徳の系譜』感想文Ⅵ
じゃあこんなことをやって一体なにがしたいのだろうか。
というか、この禁欲主義的理想というものの存在理由はなんなのか…答えははっきりと示されている。
これまで人類の上に蔓延していた呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった。そして禁欲主義的理想は人類に一つの意義を提供したのだ!それがこれまで唯一の意義であった。270p
そのまま、そういうことなのである。
目的がないことを人は恐れる、というか目的がないことを人はできない。
データがないので確かなことは言えないが、深い穴を掘り、すぐに土を詰めて元に戻すという作業を何日も続けるという実験がある。
この時、その被験者はそう日がたたないうちに精神に異常をきたしたそうだ。
だから、理由もなく苦しむと言うことが、呪詛といわれるほどのものであることは何となくわかる。
それこそ狂ってしまうほどに、苦しいことなのだろう。
その苦しみに「自分の罪」という理由を与えてくれたキリスト教は、とてもとてもありがたい存在だったのだ。
しかし、そのありがたい存在は、決して苦しみを根本から癒してくれることはなかった。
苦しみに苦しみを重ね、より一層の禁欲を志すと、またそこには苦しみがやってくる。
これが幸せという人もいるんじゃないかと私は思うが、客観的にみてなんか意味のないことを延々とやっていることは確かだろう。
禁欲主義的理想は、その名の通り禁欲主義的な理想である。
禁欲…つまり人間の諸本能やあらゆる欲求をなるべく抑え込もうとする。
そんな理想の行き着く先が、人間的でも動物的でもない場所であることは確かだろう。
あらゆる変化も生成も訪れない、死滅もなければ流転もない、そんな場所。
つまりそれは、その行き着く場所とは、虚無としか言いようがない場所なのだ。
だから、禁欲主義的理想とは、
無への意志であり、生に対する嫌忌であり、生の最も根本的な前提に対する反逆である271p
ということになる。
生を厭い、死を待ち望むことこそが救済だということだ。
これが果たしてそんなに嘆くべきことなのかと聞かれると、私は何とも言えない。
少なくとも一番苦しい状態からは離れているのだから、まあいいじゃないかと言いたくもなるが、ニーチェからしてみれば私のような人間もまた、嫌悪の対象なのだろう。