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意識低い系後輩との関わり方。失敗から考える「肯定」について

✳︎肯定のスペシャリスト✳︎

この6年ほど、台湾人の先生から中国語を習っている。そこで肯定されることがもたらす力について時々思うことがある。

例えば宿題を忘れる、めっちゃ間違える、忘れ物をする、など日本人だとイラっとしたりトゲトゲしそうな場面でも、今まで否定するのを一度も見たことがない。これってなにげに凄いと思う。

先生は全員ネイティブという事なので、南国育ちのお国柄なのか、台湾の教育課程のおかげなのか、たまたまそれぞれ個人の性格なのかは分からない。でも私の語学が6年も続いている要因が、案外実はこの肯定のせいかも?などと思う事が時々ある。


✳︎失敗した、意識低い系後輩との関わり方✳︎


私がその辺りについて気になるのは、理由がある。それは最近辞めた会社の事が今も心にひっかかるから。

ある後輩は、外部との窓口である私が、彼の担当業務についてお願いした事をなかなかやらず、しかも「やった」と嘘ばかりついて放置していた。それで度々外からクレームが来ては毎回私が謝罪し、後輩に再度お願いするのが続いた。けれど私が何度もお願いした事で後輩はふてくされ、意地になって無視し、敢えて放置するようになった。当然またクレームが来る。たまりかねて私は注意した。結果、後輩の態度は更に悪化しただけで何も変わらなかった。

当時私は、自分の心や時間に余裕が無さ過ぎて、反抗する後輩を受け止める度量が無かった。頻繁に嘘をつくからあまり信用もしておらず、何度も放置されるうち、途中から心の中では「コイツはダメだ」と諦め、切り捨てていた。でもそれが結果的には私と後輩との関係に緊張感をもたらし、関係が壊れた。それでも業務である以上、最低限のやり取り位は成立すると思った。けれど私の考えは甘く、後輩からの反抗と恨みは深刻だった。仕事にも支障がおよび、依頼が実現することがないまま私は退職を迎えた。

✳︎ホンネは誰しも意識低い系?ならば現実的な対応は✳︎

後輩とのやり取りに悩む中で、上長も含め何人かに対応を相談して驚いたことがある。それは、クレームを恐れていたのは、私一人だけだったということ。クレームは行政からで、私は会社の評判を落とすまいと必死だった。けれど私以外は皆、「あなたが頭を下げることで、やりすごせているのなら何の問題があるの?」という反応だった。評判を落とすとしても、それは長期的な話で、しかもその原因を立証する事は恐らくかなり難しい。そう思うと正直、グウの音も出ない。

今回の失敗を通して感じたこと。それは多くの人は高潔ではないし、意識も高くない。嫌な思いや仕事からは逃げられる限り逃げたいし、基本は感情で動く。誰しも自分に正義があり、許されたいと願う。だからこそ他人から変えようとされると思わず反射的に反抗する。そして人は誰しも、自分の立場から見える景色しか見えない。

私がどれだけ奮闘したところで、水辺に馬を連れて行くことは出来ても、馬に水を飲ませることは出来ない。もし目的が「後輩が依頼を実行する」なら、達成の為には後輩自らが実行しようと思う必要がある。もしそう思わないなら、後輩も組織も所詮その程度ということ。

そして人は、自分と相手との間に「この人の信頼を裏切りたくない」と思えるような関係が無い限り、基本的には楽な方や感情の赴く方に流れていく。ましてや敵意があれば、反発もするし嘘もつくし、上に進言して排除しようとすることだって当然ありうる。

だからこそ「北風と太陽」の童話同様、相手がどんな言動をするかは関係なく、私がすべきだったのは、依頼以前に相手を肯定し、関係を築くことだったのだと今改めて思う。

✳︎同調圧力が強い。だからこそ承認が欲しい。否定が怖い。✳︎

日本にはもともとクレーマー体質な文化があり、良くも悪くも物事を否定的に見ることで商品やサービスの質を上げてきた。誰かからの批判や噂、他人の視線が行動の規範になり得るし、同調圧力は良くも悪くも法律並みに機能する。

そんな中で、若手は特にガラスで出来た脆くて大きなプライドを頑なに守る為、否定される事を何より恐れ、周りに認めて欲しいからこそ逆に怖くて動けない。だからこそ一度プライドを傷つけられると、以降は敵としか見れなくなって、過剰に攻撃せずにはいられなくなるのかもしれない。そう思うと、注意する事がいかにリスキーか、改めて考えこんでしまう。

✳︎そもそも緊張感って必要?✳︎


私は1980年代生まれで、家でも学校でも部活でも職場でも習い事でも基本的に叱られ矯正される形で教育され、今に至る。だから緊張は必要悪として常に身近にあるものだった。

とは言え、緊張に慣れているかと言えばそうでもない。実際はだれる事で失敗するより、緊張し過ぎて失敗する事の方が圧倒的に多い。そう考えると、実は日常生活での緊張感の大半は、本来なら要らないもので、命に関わるなどごく限られた場面を除いて、注意をするなどの緊張を与える行為自体、そもそも非効率かも?とも思ったりもする。 

✳︎肯定がもたらすモノ・不安がもたらすモノ✳︎

考えてみると確かに、肯定され、認められると安心するし、自分を実際より大きく見せようとは思わなくなる。

逆に人は不安や恐れや怒りがある環境では疑心暗鬼になったり、自分を否定したことのある人を「敵」と捉えて恨んだり、嘘を吹聴したり、揚げ足を取ったり、誰かに張り合おうと足を引っ張ったりして人間関係がドロドロに歪む。それはお互いとてもストレスだし、仕事にも支障が出るし、その上生産性も無く、時間と気力体力の浪費以外何でもない。

✳︎大人の悩みって結局・・・✳︎

大人の悩みの大半は人間関係。そして人間関係を突き詰めると結局、こういうドロドロをいかに回避するかに尽きる気がする。

✳︎自己肯定感の低さが、人間関係のドロドロを生んでいた?✳︎

私のいた会社は、挨拶するのは少数派で、するとしても目下の人には返さない派が半分以上いた。つまり、お互い皆マウントを取りあっていた。多分皆、自分のガラスのプライドを守る為に必死だったのだろう。自己肯定感は低く、だからこそのドロドロ。

私も、入社した時は慣れずにビックリしたものの、いつしか会社とはそういうもので、ドロドロに耐えるのこそ社会人、と思うようになった。そして「全ては金の為」「安定収入第一」と自分に言い聞かせて会社が内包する過剰な保守性やネガティブマインドに目をつぶっていた。でも多分、私も含めた社員一人一人のこういう逃げ腰の気の小ささが、恐らくドロドロの元凶だったのだろうとも思う。

✳︎失敗から考える✳︎

もっとも、別に前の会社を悪く言うつもりはない。朝夕の満員電車に詰め込まれたふてくされた顔を見る限り、多分こういう精神性の会社は山ほどあるはずだから。

ただ、私は後輩との間で起きた失敗を時々思い出して胃が痛くなる。「あの時、どうするのが正解だったんだろう?」と、ついふと考える。

そして結局、相手の言動なんて関係なく、私はもっと肯定的に相手に接することが必要だったのだろうと結論づく。仕事上の関係なのだから本心である必要はない。けれどもっと事前に、周囲に対し脅かさない事を印象づけ、安心させる関係を築いておくことが必要だったのだろうと改めて思う。

当時、私の目線は社外に対して向いていた。だから社外からの依頼に応えることが最優先だと思っていたし、社内に向けては上長への報・連・相と、クレームをこれ以上大きくしないよう対処するだけで、充分対応しているつもりになっていた。

けれどその時、私以外の目線は皆、社内で完結していた。そして私は、自分と周囲との視点の違いに気づけず、カラ回った。

後輩や上長の視点で考えれば、依頼やクレームは当然私一人で完結させるものであり、そもそも眼中には無い。そんなことより、自身にとっては注意や相談される事自体、負担やストレスであり未然に防ぐべきもの、というのが本音だったと思う。

✳︎意識の高低差を凌駕するものこそ「肯定」✳︎

立場や価値観における視点の違い。意識は高い方が良いとも限らず、低い方が悪いとも限らない。なぜなら「正しさ」とは水物だから。ただ、言えることは高いも低いもそうなるに至った背景がきっとある。そして組織において個々人の意識の高低差は多かれ少なかれ恐らくある。だからこそ、その差を克服するためには、肯定的な言動で事前に関係を作り、私という存在が相手に危害や負担を与えない事をもっと強く態度で示し、あらかじめ安心感を持ってもらうことが大切だったのだろうと、実感した。

極端に例えれば、「社内の全ての人は臆病すぎる性格と鋭い牙と猛毒を持つ希少な小動物なのだ」位の認識を持って、例え自分から見て奇異に映ったとしても、ありのままの生態をそのまま受け入れ、優しく丁寧かつ慎重に接すること。もちろん心理的には受け入れ難いものもある。けれど、牙や猛毒で死ぬ事を思えば、わざわざ噛まれに行く必要も無い気もする。だからこそ、安全は距離で調節する。そしてもし、彼らとの共存と自分の心身とが両立出来なくなった時は、一旦離れるなり、その動物園を去るなりの何らかの判断が必要なのだと思う。

世の中色んな人がいる。だからこそ我が身を守る為にも、しのごの言わず全面肯定するということ。恨みにするでも、トラウマにするでもなく、自分の中の一つの教訓としていかなければと思う。

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