チャレンジを阻む、不安や恐怖という「過去の呪い」にハグとドロップキックを。
新しいチャレンジをしようとしたときに、過去を思い出し「やっぱり無理かもしれない」「やっぱり自分には何も取り柄がない」など、漠然とした無力感や不安や恐怖が湧いてくることがある。
私の場合は退職して、再就職の面接に挑むときや資格試験に挑むときに、退職のきっかけになったパワハラ上司から浴びせられた様々な言葉や態度がフラッシュバックして自分の中の気力や勇気や自信を奪っていった。
そうやって何度か過去の記憶に飲み込まれてチャンスを逃すうち「やっぱりこの過去の記憶と対峙して乗り越えないと、私は前に進めない」と段々思うようになった。
*タイムマシンでつらい過去を再体験する*
「本当にネガティブなことは人には言えない」と蓋をしたまま今に至っていた傷。でもどこかでその傷に向きあわないと、肝心な時に限ってズキズキうずく。そして「やっぱりきっと自分には駄目なんだろうな」となんの根拠もなく自然に思ってしまう。それである日、思い切って過去の記憶をがっつり思い出して対峙してみることにした。
イメージとしては、ドラえもんの道具「タイムマシン」であの時あの場所に戻る。そして「透明マント」をかぶり、今の自分も当時のあの場所に同席する。
*あの時のあの場所へ*
その時の空気感、席の並び、メンバーの表情、やりとり、発せられた言葉を一つ一つ思いだす。そしてその時の自分の言動、そして気持ちの機微を細かくじっくりじっくり思い出す。
それは私にとって会議室でパワハラ上司から詰められている場面だった。
夕暮れ時の会議室。
真夏なのに凍り付くような空気の中、一言一句変わらない理不尽な要求を繰り返し何度も突き付けてくる直属の上司に、私が繰り返し泣きながら謝罪するという、何の生産性のないやりとりが何時間も繰り返され、それを取り囲むように後輩や他の上司が黙って見ているという、思い出すだけでも息が吸えなくなりそうな場面。
言われていることが理不尽なのは私自身も分かっている。もはやこれは指導でもミーティングでもなく、単なる「いじめ」以外の何ものでもない状況に陥っていて、明らかに自分がターゲットにされているなと、強く感じる。
でも、「上にたてつくという人間性に問題がある人=悪」としてのレッテルを張られた私には、何を言っても何をやっても許されるという「正義」の立場を得た上司や後輩は、それぞれナルシスティックに酔った暴言を吐いてきて、そうすることで仲間意識を確認しあい、笑いあってじゃれている。そして目の前で展開するその光景に対し私はなす術がない。
半年前、10年間断続的に行われてきたパワハラが再開したことに対し、意を決して私はパワハラの日時と内容、該当する条項を書いた資料を作り、「その言動は国が出しているガイドラインに挙げられるパワハラの定義と合致するのではないか?だとしたら、伝え方を改めて貰いたい。指導が目的なら改善したいから、『私という人格や存在が諸悪の根源』という漠然としたものではなく、具体的な言動を挙げてどこがどう問題だったのか教えて貰いたい。そして改善案を相談させてもらいたい」と伝えた。それが裏目に出て、更にそこに後輩や同僚、直属の上司が便乗して悪ノリしている。これは、もちろん発言する選択をした自分が招いた結果なのだから、ある程度は甘んじて受けよう。とは言え私にも限界はある・・・。
だからせめてこれ以上、状況を悪くしたくない。かれこれ既に3時間以上続いている。これ以上酷くなったら私の精神が崩壊してしまいそう。つらい。苦しい。もういい加減消えてしまいたい。だから、とりあえずこの場を終わらせる為に、全て自分の責任として謝る以外やりようがない。もう許して。全て何もかも私が悪いんです。だからもう開放して。お願い。そう思いながらひたすら繰り返す謝罪。そして見えるのは薄ら笑いを浮かべる後輩や同僚、そしてまだまだ、いじめ足りない様子の直属の上司。
そして、また別の日。
目の前で私が居る課の課内ミーティングが和やかに行われている。もちろん私だけ呼ばれていない。
目の前で展開する吐き気がしそうな景色を自席で一人ポツンと眺めながら、諦めや会社に見切りをつけかけて冷めた気持ちがどんどんと湧いて来る。そんな様々な場面と共に当時の自分の考えや気持ちが次々と雪崩のように押し寄せてくる。
*今の自分だから見える視点。心残りに決着を*
思い出しながら、会社を辞めて第三者になった今の自分だからこそ見えてくるものもある。当時の上司の破綻しまくりの理屈や、そこに居る全員の根底にあるコンプレックスや保身や不安やストレスや劣等感や無責任さ、弱い者にマウンティングして安心したいという弱さやズルさ。
想像の中で私は、自分を後ろから抱きしめながら「あの場面ではああするしかなかったんだよね」「つらかったよね」「ほんと、よく13年もあんな会社に通ったよね。悔しかったよね。」「めちゃくちゃよく頑張ったよね」「便宜上謝ったけど、あれは本当は私だけの問題じゃないよ。どう考えても組織の問題だし、上司と後輩と同僚それぞれのコンプレックスの問題でもある。」「上司たちは『マネジメント』をふんぞりかえることだと勘違いしてるマウンティング好きの猿だったんだ。」「あの日あの時会議室の窓から飛び降りなかっただけでも充分よくやった!マジ称賛に値する!!」と声を掛ける。退職直前、ストレスで物を食べられなくなってガリガリになっていた当時の私。改めて「本当によくぞ生きていてくれた!!!」とぎゅっと抱きしめる。
そして会議室での私の謝罪に対し、「あぁ」と言いながらふんぞり返っていた直属の上司には思いっきりドロップキックをお見舞いし「謝ってください。マネージメント出来てないあなたにそれを言う資格はあるんですか?」「あなたがしている『人間関係の切り離し』は、国のガイドラインにも明らかに違反するパワハラですよ。謝罪してください」と迫る。
そして上司の口から「すいませんでした」と言わせる。そして自分には「今はもう、この臆病でコンプレックスの塊の人たちのサンドバックなんかじゃない。私はもう、自由。何をやってもいいし、これからはもう、周りに気を使うことなく思いっきり仕事も挑戦も何だってして良いんだよ」と改めて思いっきり抱きしめる。
ばかばかしいかもしれないし、何より全ては妄想なのだけど、上司に謝罪させる状況を頭の中で思い浮かべ、実際ほろっと泣けたとき、今まで無意識のうちに体に入っていた力がフッと少し抜けたのを感じた。
*挑戦してくために「傷ついた過去の自分」を癒す*
私たちは複雑な人間関係の中で生きている。例えば会社では派閥争いや社内政治など、コンプレックスを起点にした、くだらない足の引っ張り合いに巻き込まれることも珍しくない。
こういうものは、自身は興味がなくても、どれだけ自分から挨拶をし、良い所を見つけてほめたりしても、特定の誰かが存在する事自体に勝手に不安やストレスを感じて色々デマを流したり足を引っ張ったりしてくる人もいる以上、完全に避けることは本当にめちゃくちゃ難しい。と言うか、相性や「生理的に無理」や相手のコンプレックス等、理屈や自身でコントロールできない次元の話なので、きっと生きている限りずっと逃げられない問題なのだと思う。
とは言え、マウントをとり、暴言を吐き、他人にトラウマという呪いをかける人たちに気を遣って自分の可能性に制限をかけたり、自信を無くして自分の人生を狂わされるのはあまりにも悔しいし、もったいないし、ばからしい。
もちろん、実際に人にドロップキックを食らわせたり謝らせたりすることはできない。
だけど妄想の中でドラえもんの道具を使うんでもいい。とにかくばかばかしくても何でもいいのでとにかく何らかの形で傷ついた自分を癒すということが今のストレス社会の中で挑戦し生き抜いていくためには必要なのではないか。私はそう思う。
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