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人間関係のノイズが無くなったら、人生の質が爆上がりした話

*本能的に成長したい人、本能的に現状を維持したい人が混じる不幸*

私が13年勤め、そして最近辞めた会社は保守的で、目上の人にはとにかくYESマンでいる事を強く求められるような所だった。社内ではアサーションの「ア」の字すら許されず、しかもお互い挨拶もし合わず、ひたすら損得勘定(相手を利用すること・マウントをとること)に意識が向いているような集団。全体が何とも言えない陰気な雰囲気を漂わせていた。

皆がコンプレックスの塊だったので、例えば入社日当日も、近くにいた女性の先輩に挨拶したら、先輩は自分の名前を名乗ることもなく「あいにく、うちの男性社員は全員結婚してるから!(怒)」と噛み合わない返事が返ってくる有様。そう言われるとこちらも「あ、そうなんですね!」と返して会話を断念して、焦らずぼちぼち関係を築いたら良いか、と自分を励まし引き下がるしかない。

それもこのやりとり、実は一人や2人ではない。そして念のため言うが、私はお色気ムンムンのタイプではないし、普通に制服を着て普通のオフィスメイクをしていただけ。勿論、挨拶も「独身」とか「彼氏募集」など一言も言ってない。名前と「よろしくお願いします」と「至らない所もあるとは思いますが頑張ります」程度のごく平凡なものだったはず。このライバル心剥き出しのノリはなかなか驚いた。まさか最初から喧嘩腰でここまで会話が噛み合わないとは。以降、挨拶しても当然無視。なのに皆、ごく一部の男性や役員にはとても愛想よく気が利いた振る舞いをする。ただし、裏ではゴシップと不満と悪口ばかり。その後私もそのうち何人かとは多少世間話は出来るようになったけれど。今になって思うと、よくぞまぁそんな中で13年も頑張ったもんだと思う。

とにかくそんな状態なので、例えば「前例のないことを言う」「終業後に習い事をする」「多少外国語を話せる」「悪口大会に参加しない」「人が見て見ぬふりしている雑用を(見かねて)自らやる」「飲み会の時に事務局ばかりの群れ(もちろん内容は悪口大会)から離れ、1人で居心地悪そうにしている役員と話をする」なんてことをすると「いい子ぶりっこ」「色目を使う」「意識高い系」と揶揄されたり、不安と被害妄想に取りつかれた上司から指導という名目で「裏があるんじゃないか」「俺を陥れようとしているんじゃないか」「生意気」「周囲を扇動する」などという謎の理由で詰められたり村八分にされたり、人との会話を禁止されたり、自ら退職するよう何度も求められたり、「あの人もこの人もあなたと一緒に働きたくないと言っている(後に嘘だと判明する)」と何度も言われたり、密室でひたすら「問題は、あなたが存在している事が原因で起こっている」という謎の理由で人格否定されるなど、意味不明なパワハラが連日行われていた。

つまり、これは入社して分かったのだけど、社員の自己肯定感が低すぎて、周囲と違う事をすることが許されない、異様に同調圧力の強い社風がそこにはあった。

私からすると、彼らにとって毎日ひたすら前例通りを繰り返す事で年功序列のエスカレーターの列を乱さず現状維持することが何よりも最優先。なので皆必死でお互いを監視し、抜け駆けしないよう牽制し合っているかのように見えていた。そして私は彼らの言動に自己肯定感の低さや精神的な不健康さや幼稚さを感じずにはいられなかった。

そうは言いつつ、在職時の私も「安定企業で働き続けるために、自分もどうにか周りになじまなくては」とホンネを隠し、気を遣い、意図的に手を抜き、やる気のない演技をしたり、心にも無いことを言って家で自己嫌悪したり、プライベートを違和感なく隠す方法に心を砕いたり、人間不信に陥ったり、仕事への不完全燃焼さにモヤモヤしながら、会社での自分と成長したい素の自分との折り合いをどうやってつけようかと10年以上格闘し、悩み続けてきた。

今になって思うと、彼らにとって私はまるで年功序列という安全なエスカレーターに対し割り込みを試みるような得体の知れない存在で、不快で常識知らずに見えていたのだろうし、だとしたら割り込まれないよう警戒する事はもちろん、躾をするなり排除するなり、潰すなり、対抗するなり、とにかく何らかの対処すべき対象として見えていたのだろうというのも充分理解できる。

もちろん実際は私に割り込みをするつもりは全くなく、周囲の人が異分子である私に対して、勝手にネガティブな妄想をして不安になっていただけで、全ては完全なる誤解に基づくものだったのだけど、これはまさに人生観が違いすぎる人が混じることによる不幸だったと思う。

*人生のノイズが無くなったら見える世界が一変した*

そんな会社を辞めて数カ月。
自由の身となり興味があることばかりをしているうちに、気が付けば周りが自然体な人、自分や自分の大切な人に意識を向けて他人の足を引っ張らない人、前向きな人ばかりになった。すると、世界の見え方がどんどん「やさしく」「健全」で「ポジティブ」で「やればいつかはできる」ように見えてきた。

会社員時代、「これが仕事をするという事なのだ」と自分に言い聞かせて周りの人に遠慮し挑戦することを諦め、空気を読んで、時に目上の誰かのストレスをぶつける為のサンドバック役を仕事の一環としてとして甘んじてうけるうち、私の声は、いつでも「え?」と聞き返される位か細くなり、猫背がデフォルトとなり、中学時代のクラスメートから「大人になったら一緒に漫才コンビを組もう」と言われていた頃のユーモアもどこへやら、笑顔自体がどこかに行ってしまった。

それが会社を辞めたことで、空の雲が晴れるように子供のころの自分のようにのびのびとした自分が再び顔を出し、周りの人のタイプが変わり、親から十年ぶりにあなたの笑顔を見たと言われ、まるで長年逸れていた人生のメインルートにようやく戻ってきたような感覚を持てるようになってきた。

*「どうにもこうにも相性の悪い人」という人生のノイズ*

保守的な人が悪いとは言わない。
もちろん私の中にも保守的な面も臆病で慎重な面も大いにある。でも同時に私の中にも「このままじゃ嫌だ!」とか「やってみたい!」とか、そういう心の叫びもある。内容や程度はどうあれ、多分これは誰の心の中にもあると思う。

当たり前だけど、例えば生まれたての赤ちゃんは、「お母様、今お時間よろしいでしょうか?恐れ入ります、現在わたくしのオムツが濡れてまして、もし宜しければ換えて頂けますでしょうか?・・・あ、お手隙の時で全然かまいません。」「お手数おかけします(汗)」なんてことは言わない。周りの大人に対し、当然自分を助けてくれると信じ、自分のタイミングで泣くという自分流のやり方で主張をする。

そんな感じののびのびしたありのままの気持ち。私たちは誰もが年を取るにつれ、自然にそれをなだめる方法ばかりを身に着けていくけれど、実際はそういう心の叫びを押し殺し続けると、往々にして不健全な形で噴出する。

それが私の場合は体調を崩したことであり、前職の人達のネガティブ思考や妬みやひがみ、パワハラや陰口やデマや村八分なのだと思う。だからこそ、大人が大人であるために身につけるべき振る舞いとは、我慢などではなく、いかに健全な形でありのままの気持ちを出すかなのだと思う。

理性と感情、保守と革新。その配合バランスがあまりに違い過ぎて、どうしても理解し合えない人や生理的に合わない関係が世の中に一定数居ることは否めない。そういう相手はお互いにとって人生の「ノイズ」となる。

*自分の人生をクリアに体感するために*

環境を変える為には大きな勇気と決断が要る。けれど一度きりの人生。自分の人生を後悔なく、よりクリアに体感するために、ノイズから離れることも大事な選択だと私は思う。

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