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短編小説『寝不足カンタータ』

 ………少し長くなるが、聞いてくれるかい。
 何故わたしが君の元を訪ねるに至ったか、これを聞いてよく考えてほしい。この話を聞いた後で、君の知見をぜひお聞かせ願いたい。

 わたしは、奇跡を見たんだ。いきなりこんなことから始めてしまってすまない。だが頼むから、まずは聞いてくれ。

 わたしの職業は作家だ。40年間、まだこの世に存在しなかった新たな人生を歩む者たちの物語を紡ぎ、その者たちと共に生活してきたわけだ。まあ本当のところは、その物語が掲載された雑誌や本の印税で暮らしているわけだが。

 しかし、作品がわたしの命をつないでくれるのは本当のことだ。
 さて、その作品が生まれるきっかけ、則ちわたしの命の源であるインスピレーションについて話しておかなければなるまい。

 インスピレーションなどというものは突然の閃きや何気ない日常の中に隠れていると言われるが、わたしにとってはそれだけのことではない。わたしにとってインスピレーションとは、持続的な探求心の中に燃える炎のようなものだ。

 わたしはこう考える。人間が生きている間に受け取れるインスピレーションは限られている。だから、それを逃すことなく掴むために、目を凝らし、耳を澄ませ、心を開く必要がある。

 そうは言ったものの、人間のモチベーションには波があり、一切インスピレーションが湧かず作業デスクに座ることさえしない日もあれば、頭の中にとてつもないスピードと衝撃を伴って降り注ぐ発想の稲妻が、pc画面に文字を打つ指を追い抜いてしまう日だってある。

 昨日の午前は前者で、実に調子が悪かった。

 わたしは2日前、古くからの友人の誘いで日帰りの温泉旅行を楽しんだ。帰宅したのは夜中1時のことであった。久方ぶりの再開だったために、興奮冷めやらぬまま布団に潜ることとなったのだが、これが満足に眠りにつけない。

 目を閉じながら、数時間前までの、花を咲かせた思い出話の数々を、頭の中で最初から順に再生してみたり、今度は逆さから巻き戻したりしてみた。すると、次会うときは何を話そうかとか、あいつもここにいればとか、ここはこのように言っておけばもうひと笑いとれたとか、今考えても仕方がないことまで浮かんで来るようになった。

 わたしの睡魔は、思考が浮かんでは消え、消えては浮かんでを繰り返すうちに、いよいよその姿を小さくしていった。思考が途中で分断されたような感じがするときは、時計を見ると、ほんの10分だけ眠っていたなんてことが数回あったりもした。ただその夜は、朦朧とした意識を保ち続けている時間が大半であった。

 そんな夢と現実の境目を行ったり来たりしているような中、現実のわたしが窓を見ると、いよいよ空が明るくなり始めていた。
 わたしはもう夢の世界に行くことを諦め、布団をたたんでしまった。昨日の朝6時、旅行から帰ってきて5時間が経った時点までの出来事だ。

 さて、こんな状態で執筆を始めるわけにはいかないのはお分かりのことと思う。インスピレーションがどうだとか語る資格は、その時のわたしは持ち合わせていないのだ。とにかく眠気を覚ますために、なにか手を打たなければならなかった。
 そうはいってもできることなんて限られている。

 わたしは毎日のルーティンである散歩に出かけた。
 わたしの目は常に半開きの状態にさらされていた。目を開けようとすれば瞼に重力をかけられ、目を閉じようとすれば見えざる浮力によって引き戻された。眼球が水の中で浮き沈みしているような感覚だった。
 わたしのレンズには、いつも清々しい気持ちで通るはずの散歩道の、半開きで固定されたフレームに切り取られた、歪んだ景色が映った。
 
 しかし、そんな不快な世界も、コンビニエンスストアの缶コーヒーを前にすると、みるみるうちに収束してしまった。通常、わたしの毎朝の散歩は、散歩自体が目的であるためにここで折り返しとなるが、昨日は眠気を覚ますことが目的であったために、少々遠回りをしてゆっくりと家路についた。

 家に帰りながら、新たな物語の糸口を探してみた。何も浮かばない。自然のうちに物語を見つけるための目も、そよ風の声を聴きわける耳も、人間の営みを受け入れるために研ぎ澄まされた心も、今の私には持ち合わせていないような気がしていた。
 
 家に戻ると、pcもノートも開かずに、ただひたすらにボーッとした。窓の外を眺め、人々の日常を見ながらぼんやりと過ごした。
 
 気づけば昼過ぎである。それでも、気分を変えようとPCを開いて少し執筆を始めたが、うまく言葉が纏まらない。書くことに心が躍らない代わりに、わたしの小指はバックスペースキーの上で、ただひたすらにタップを踏んでいた。

 「なるほど、今日はそういう日だ」と割り切り、昨日は完全に休息日にしようと思った。旅行が休息にならなかった、なんとも残念な話であろう。

 少し腹が空いてきたため、キッチンでお手軽な昼食を作って食べた。
 畳に上がり、最近購入した笹公人氏の短歌集を本棚から取り出した。
 次の小説に必要となる、音楽理論に関する資料に一通り目を通した。
 デスクの散らかった書籍や筆記用具を整理し、部屋を軽く掃除した。
 チョコレートをひとかけ食べた。

 時刻は18時、このあたりで少し眠気が来た。この眠気に、わたしは抗うべきであると判断した。
 もしここで寝てしまっていたら、起きる時間は7時間後の午前1時なる。わたしは昼夜逆転を体現した人間として、夜の静寂を闊歩するような作家になるわけにはいかなかった。
 人との関わりや、自然の神秘など、昼間の太陽の下に繰り広げられる世界が、わたしのインスピレーションを生み出すと信じていたのだ。

 わたしはもう一度外へ出ていき、この日2杯目となる缶コーヒーをコンビニエンスストアで購入した。なるべくたくさんのカフェインが脳へ行き届くよう願いを込めて、黒々とした液体を胃に流し込んだ。

 朝もそうしていたように、遠回りで家に帰ってくると20時であった。またもやわたしは、ずっとボーッとしている時間を過ごした。何もかも放棄したわたしという存在を、無理やり眠気を取り除いたわたしが見つめ直すその時間、なんとも苦痛であった。部屋の空気も重苦しく感じ、窓を開けて空気を入れ替えた。
 しかし、実に有意義なひと時であるとも感じていた。自己分析のための時間を意識的に過ごしているのは、これが初めての経験であったからだ。

 21時に風呂でさっとシャワーを浴びた後、少し読書をしようかと考えて、本棚から好きな小説を手に取った。しかし、途中でページをめくる気力も湧かなくなってしまい、それをテーブルの上に置いた。
 カフェインはまだ私の中に居座っているようであった。

 眠くなることを期待し、布団を敷く。気がつけば22時を過ぎていた。部屋の空気がまたもや重苦しく感じられ、何となく窓を開けてみたいと思った。

 これは昨日のうちにインスピレーションを得る最後のチャンスだった。外界とつながるのは、玄関の窓と今開かれているこの窓だけ。そんなことを思いながら窓のフレーム越しに見た景色は、いつもと何ら変わり映えがない夜の静寂だった。わたしは意気消沈しながら、また窓スライドして閉じていった。

 その時だ。遠くのほうで鐘の音が聞こえたような気がした。
 
 よく耳を澄ませてみると、鐘の音だけではなく、メロディーを奏でる楽器の音や、さらには人の歌声まで聞こえてきた。
 その音はだんだん大きくなってきた。こちらに近づいているのだ。まるで昔話のかさじぞうのように、遠くからこちらへ向かって行進してくる。

 辺りを見渡し、わたしは息を吞んだ。

 楽器や歌声はの正体は、月明かりに照らされた空に浮かんだ、幻想的なカンタータ隊であった。
 そのカンタータ隊は、ただの音楽隊とは一線を画す、幻想的で壮大な存在だった。彼らは異次元からやってきたかのような、霧のように透明で繊細な姿をしており、空を舞うかのように動きながらその旋律を奏でていた。

 第一のソプラノは純白のドレスを纏い、天使のような羽を持つ少女が、手にした小さなハープでメロディを奏でていた。
 
 彼らの中心には、透き通るようなアルトの歌声を持つ女性がいた。彼女の長い銀髪は空を舞い、瞳は深い青で、まるで宇宙の星々を映し出しているかのようだった。彼女の口から流れ出る歌声は、時に悲しみ、時に喜び、その度に星々が彼女の周りで輝きを増していた。

 彼女の左右には、二人のバリトン歌手が並んでいた。彼らは双子のような姿で、黒と白の長ローブを身に纏っていた。彼らの歌声は力強く、その和音はまるで雷のような迫力を持って空に響き渡っていた。

 後ろには、小さな合唱団がいた。彼らの中には老若男女が混ざり合い、彼らの歌声はまるで風のようにやさしく、雨のようにしっとりとしていた。特に子供たちの透明感のある歌声は、まるで涙のように心に染み入ってきた。

 そして、その合唱団の背後には、大きなオーケストラが広がっていた。弦楽器、木管楽器、金管楽器、そして打楽器が織りなす音色は、まるで大自然の語る物語のようだった。特に、チェロの低い音色とフルートの高い音色の対比は、まるで月明かりと夜の闇のような対照をなしていた。

 このカンタータ隊の演奏は、まるで空間を超えたような存在感を持っていた。彼らの音楽は、過去と未来、生と死、喜びと悲しみ、全ての対極をつなぎ合わせるかのような力を持っていた。

 わたしはただ、その場に立ち尽くし、彼らの音楽に酔いしれるしかなかった。そして気づけば吸い寄せられるようにデスクへ向かっていた。

 もうその後はわたしもあまりよく覚えていない。血液が、カンタータ隊の音楽を体中に循環させていることを感じながら、ほとんど無意識のまま執筆を始めていたようだ。
 10分ごとにハッと我に返るような瞬間が訪れ、びっしりと文字の並んだwordのページが1枚、また1枚と増えていった。何を書いていたのか記憶になく、それを読み返しているうちに、再びあの音楽が聞こえてくる。また10分後に意識を取り戻し、新しいページをいつの間にか書き上げていたことを知る。

 最後にわたしが意識を取り戻した時にはもう日が昇っていた。今日の朝7時である。昨日の昼間には1文字たりとも進まなかった物語が、wordの原稿用紙50枚以上に渡って展開されていることから、少なくとも8時間は手を休めずに執筆していたようだ。

 改めてわたしは自分が書いた小説を読んだ。冒頭の一文から、その文字たちはまるで生命を持っているかのように私の心に響きわたった。

 自分が書いたとは思えない、まるで別の世界からの贈り物のような文章が並ぶ。そうだ、これはあのカンタータ隊がもたらしてくれた、異次元のインスピレーションが運んでくれた場所なのだ。
 言葉の背後に隠された深い意味や感情をくみ取ろうとしてしまうほど、自らが作者であることを忘れてしまう表現力。登場人物たちの行動に呼応する、繊細な情景描写。各章の終わりに組み込まれている、読者をぐっと惹きつける仕掛け。
 こんな作品を生み出せた自分を誇りに思う。40年の時間を超えて、私は真の作家としての一歩を踏み出した気がした。

 これを奇跡と呼ばずに何という。

 わたしは初めて奇跡を体感したのだ!この世に生を授かり幾秒、幾日、幾年、わたしは誰にも訪れることのないであろう、"奇跡"という究極のインスピレーションを身に纏い、日本文学の歴史に神のごとく君臨するのだ!!!



「ざっと、こんなところです」
「………そ、それが、わたしがここにきて初めて発した言葉、ですか………」
「ええ、そうです」
「いやあ、もう。本当にお恥ずかしい限りです………」

「意味が分かりませんよ。よくあんなに長々と話ができましたね」
「はい、すいません……… 」
「覚えていますか?」
「いいえ、全く………」
「はあ。まあそうでしょう。いちいち、構成とか、比喩とか、凝りすぎですよ」
「本当に、申し訳ないです………」

「はあ、まったく。運んでくれた方にはちゃんとお礼をしておきましょう。相当な苦労をされたようですから」
「えっ。わたしはどうやってここへ来たのでしょうか」
「聞かないほうが良いと思いますが、お話ししましょう。あなたは朝8時頃、おそらく出来上がった小説を読み返した後なのでしょう。急に家を飛び出し、『キエ―—―ッッ!!!』などと奇声を上げながら、住宅街を充血した目で走り回っていたそうです。あなたをこの病院まで運んでくれたのは、あなたが普段散歩道としている道路に面した家の方でした。変わり果てたあなたの姿を見て、ただ事ではないと判断し、急いでタクシーを手配されたようです。ですから家に帰って落ち着いたら、まずはその方を訪ねてあげてください」

「さきほどお話しいたただいたのはいつのことで………」
「だから言ってるじゃないですか。この病院に来た時ですよ。あなたは椅子に座ったまま目を見開いて、硬直していました。やっと口を開いたと思ったら、こちらの質問も無視してあんなことを喋り始めたのです。
もう一度言いますが、本当に意味が分かりません。交感神経が異常に興奮したうえで、幻覚・幻聴症状さえ発現したのに、あなたは寝不足に至る経緯まで詳細に話していた。内容の真偽はわかりかねますが、いずれにせよあなたは、度を超えた寝不足による突発的な脳の覚醒によって体に異常をきたしていたようです。
なんだったんですか?『少し長くなるが』、じゃないんですよ。作家の長い話ってレベルが違うんですね。それに何ですか?カンタータ隊の異次元のインスピレーションって。聞いたことがないですよ」
「ああ、もう、本当に。言うことがありません………」

「まだ完全に回復したわけではありませんので、今日は帰って安静にしててください」
「はい………」
「あと、あなた、8時間にもわたって小説を書いたとかおっしゃってましたね。明日でもいいですので、もう一度よく目を通してみてください。おそらく読めたもんじゃない文章になっているでしょうから」
「わたしも…そう思います………」
「それでは、お疲れさまでした。今後はちゃんと寝るようにしてくださいね。お大事に」
「どうも。ありがとうございました………」

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