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私の足跡『たびらのたび』

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ノンフィクション小説形式でお届け! 大学時代に核問題を学んでから、被爆体験を継承した「次世代の語り部」としての旅の足跡を書いています。 語り部をやっている若者や仕事と両立しながら…
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#語り部

第6章 命日 ③「第二次世界大戦の裏側」

第6章 命日 ③「第二次世界大戦の裏側」

 二つ目の質問は、第二次世界大戦の裏側に直結する良い質問だった。

 「世界で最初に核兵器を作ったのはアメリカです。戦争末期、ドイツが原爆を開発する可能性があるといわれたから、アメリカでも早急に開発しようという話になりました」。子供達がメモを取る。

 「原爆を作ったのは科学者ですが、その裏にはアインシュタインと、当時の大統領だったルーズベルトがいました。アインシュタインって知ってるよね?」

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第6章 命日 ②「私の言葉、子供の視線」

第6章 命日 ②「私の言葉、子供の視線」

 いよいよ話が終わりに近づき、メモを取る手を止めてもらい、前を向くように言った。

 「今日、何月何日ですか?」
 正しく答える子や1日ずれた日を答えた子、何日だっけなと考えている子もいた。

 「実は、2年前の今日、勲さんはお亡くなりになりました」。
 ―児童たちの目つきが変わったようだった。教室は静まり、みんなが私の方を見た。

 「ですから、今日は天国にいらっしゃる勲さんのことも思ってくださ

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第6章 命日 ①「勲さんに捧げる講話」

第6章 命日 ①「勲さんに捧げる講話」

 2019年10月上旬、私は熊本県球磨(くま)郡水上(みずかみ)村にいた。人吉駅から路線バスで1時間のところにあるこの村は、田んぼと畑が多くある盆地だ。きれいに澄んだ秋の空に緑の山々が美しく映えている。
 私はこの村の小学生に講話をするためにやってきた。

 奇しくも、この日は勲さんの命日であった。そんな日に講話をさせていただくことになり、不思議な感覚になった。天国にいらっしゃる勲さんに思いを馳せ

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第5章 長崎 ⑥「先生や父兄も巻き込んで」

第5章 長崎 ⑥「先生や父兄も巻き込んで」

 そして次に、学校での講話をさらに進化させることである。具体的に言えば、ただ被爆者の話をして生徒の質問に答えて終わるのではなく、事前の打合せ時点から単なる講演を超えた時間になるように先生と相談し合うということだ。

 また、講話には可能な限り保護者にもご来校いただき、先生・生徒・保護者・証言者の全員で原爆や戦争、平和について学び考えていくようにできたらどうかと考えている。
 実際これまでに2校の中

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第5章 長崎 ⑤「もっと講話しようよ!」

第5章 長崎 ⑤「もっと講話しようよ!」

 だから、私は提案したい。

 まず最初に、長崎原爆資料館での講話の機会を増やすことだ。

 現在原爆資料館では月に二度、第二木曜日と第四日曜日に定期講話をやっている。これは、主に資料館を訪れた人に向けたもので、講話者の友人・知人も見に来る。
 講話デビューをした証言者なら誰でもできる。定期講話は1時間、2人の証言者が30分ずつ講話を行う。

 私達証言者が原爆資料館で講話をするのはこの機会くらい

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第5章 長崎 ④「劣等被爆都市・長崎」

第5章 長崎 ④「劣等被爆都市・長崎」

 私はこのような広島と長崎の差に気づき、疑問を抱いているときに、それをピタリと言い当てている言葉を見つけた。それが「劣等被爆都市長崎」だ。

***

 社会学博士の高橋眞司氏は著書の中で「世界の注目と脚光を浴びるのはいつも広島であって、長崎と長崎の被爆者でなかった。それだけでなく、長崎はながく忘却と無視と誤解のうちに放置」されてきたといって過言でないと表現した。また、そうした事態を「劣等被爆都市

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第5章 長崎 ③「オバマは長崎に来なかった」

第5章 長崎 ③「オバマは長崎に来なかった」

 私個人が心に引っかかっているのは、2017年5月にアメリカのオバマ前大統領が広島を訪問した時のことだ。

 原爆を落とした国のトップによる歴史上初めての被爆地訪問ということで、注目度はかなりのものだった。
 オバマ前大統領のスピーチや被爆者との抱擁の場面は、被爆者のみならず、たくさんの人々の心に焼きついたのではないだろうか。

 しかしこれには裏話がある。長崎の被爆者はこの場に招待されていなかっ

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第5章 長崎 ②「広島と長崎の差」

第5章 長崎 ②「広島と長崎の差」

 まず、自分なりに勉強しようと決めた。被爆70周年ではどのような事業が採択されたのか。長崎の平和行政はどのような体制になっていて、どこが何をやっているのか、ここ数年の平和宣言でメインになっている言葉やメッセージは何か。
 また、同じく被爆都市である広島は、節目にあたってどのような事業をやっているのか、といったことだ。

 広島も長崎同様、70周年時に記念事業をやっているのだが、正直予想をはるかに超

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第5章 長崎 ①「若者代表として」

第5章 長崎 ①「若者代表として」

 嬉しいことに、私の仕事は講話だけではない。その最たるものが「被爆75周年記念事業選定審査委員」としての活動だ。
 2020年は被爆75周年の節目だった。ゆえに、平和を発信し、記念するイベントを県内の団体等から広く公募で集める。集まったイベントは委員が審査し、選ばれ、翌年に実施される。私は2019年5月1日付で審査委員の任命を拝受した。

***

 委員は4名で構成されている。私以外の3名は大学

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第4章 出発 ⑪「見えないチームワーク」

第4章 出発 ⑪「見えないチームワーク」

 ところで、被爆体験講話は決して一人ではできない。原稿を書くこと、派遣先に行くこと、そして人前で話すことは自分一人で行う。しかし、その過程には多くの方々の支えと手助けがある。

 まず第一に被爆者の存在だ。被爆という大変おつらい経験を私達に語り継いでくださる。
事業の担当者は講話原稿の添削とアドバイスを、必要に応じて被爆当時の写真や資料等を提供してくださる。
 講話デビューが決まったら、直前にプロ

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第4章 出発 ⑩「電話越しでも再会」

第4章 出発 ⑩「電話越しでも再会」

 「まあ、小さい学校やったし覚えとるよ!あと『由布子(ゆうこ)』って名前が珍しくて記憶に残っとったんよね。あの漢字で『ゆうこ』ってなかなかないけんさ。
 それから長大に行ったろ?長大に行った、今26歳、田平由布子…『あの』田平さんやなって」。

 当初、被爆体験講話だから被爆者が話をするものだと思っていたらしい。だから私のことを高校時代の教え子ではなく、田平由布子と同姓同名である被爆者のおばあちゃ

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第4章 出発 ⑨「驚きの再会」

第4章 出発 ⑨「驚きの再会」

 ところで、講話での出会いは行く先々の先生方や生徒達だけではない。すごい偶然で出会った人をご紹介したい。

 2019年8月9日、この日は長崎に原爆が投下されてから74年の日にあたる。
 私は長崎の北西にある壱岐島にいた。高校の登校日に行われる平和集会で講話をするためだ。
 長崎に生まれ育っていながら、壱岐に行くのは初めてだった。美しいエメラルドグリーンの海と、心地良いそよ風に癒されながら、前日の

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第4章 出発 ⑧「眠くならない講話、だそうで」

第4章 出発 ⑧「眠くならない講話、だそうで」

 感想文ではないが、講話をした学校の先生から生徒の様子を教えてもらったことが2回あった。
 2019年5月中旬、奄美大島の中学校で2年生に向けて講話をし、3か月後に学年主任の先生と生徒全員からの感想文をもらった時のことだ。読みながら思わず笑ってしまったのは先生からのお手紙だった。

 「修学旅行で行った原爆資料館では、田平さんが講話で使った(原爆資料館にも展示されている)資料を見つけて『これだ!』

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第4章 出発 ⑦「15歳で使命を自覚した女の子」

第4章 出発 ⑦「15歳で使命を自覚した女の子」

 こうして講話を終え、学校によっては生徒に感想文を書いてもらい、後日郵送していただく。

 何よりも一番嬉しい感想は「勲さんが大事にしていた『戦争ほど残酷なものはない、戦争ほど悲惨なものはない、平和ほど尊いものはない』という言葉が一番心に残った」というものだ。
 私の役割は勲さんの被爆体験と平和への思いを正しく伝えることにあるから、このような感想をいただくことは、証言者冥利に尽きる。

 その次に

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