見出し画像

本当に新しい価値観は、以前からある用語では表せないのでは?

以前、人と私のSNSのコメント欄で「知性」についてやりとりしていて、意見が違う。そうしたら相手が途中で

「にへいさん、私は大学で仏教と哲学を専攻していました」

と諭すように言い始めて、私はすっかり興ざめしてしまいました。

私は

「今、この瞬間に、お互いの意見の間に産まれるものを観察し、新しい何かを見出しましょう」

ということが、意見のやりとりの醍醐味だと思っているので・・・

もし「私は大学の〇〇先生に習ったけども、あなたは大学で教育を受けていない」

「私は大卒、あなたは高卒だから、私はあなたよりも知っている」

という態度なら、そんなものはまるで面白くないやりとりになってしまいます。

私は、そういうやりとりの際には、極力知識を用いずに、その場、その瞬間に観えた物事を言葉にするのに集中します。あくまでも、自分が実感を持てる言葉で、普通の言葉しか使わないように意識します。

引用や、有名人が発した言葉は極力使わず、使う時は非常に慎重に使います。

なぜなら、その

「有名な言葉や、その意味とされるもの」は

「長年使われ固定の意味を持ち過ぎ、別の意味になっていることすらある」

「発言した本人の真意とは違う伝わり方をしている可能性がある(意外に多い)」

「現代においてはその言葉と意味の賞味期限が切れている可能性がある」

という特性があるからです。

私は「知性」の役割について

「今、むき出しの感性を起動させ、最大限に解き放ち、かつ流されないでいることは、知性無しでは出来ない」

「純粋に感覚的であるには、知性が必要なのだ」

「感覚的であることと、知的であることは全く矛盾せず、それは車輪の両輪なのだ」

と、個人的に設定しているので

自分が何かを見出したい時に「どこかの誰かが言った言葉」はむしろ邪魔なのです。それがどんなに有名な言葉であっても。

禅の世界ではそれをこう言う、だとか、哲学者の誰それがこういう風に言っているとか、美学ではこうだ、とかそんなことは、今起こっていることを観察し、何かを見出そうとしている「今この瞬間」は関係ないのです。

それを知っていることは大切ですが、しかし「その知識のフィルターで眼の前に起こっていることを観てはならない」と私は思っています。

そういう安易なことをしないタフな精神の根幹にあるのが知性です。知性は知識ではなく、そういう性質を持つ何か、という事です。

移りゆく眼の前の現象にサッサと名前をつけて納得したい、安心したい、既知にすがりたい虚弱で平凡な精神ではない「強靭な自律性と自立性がある感性」・・・それを支えるものを「知性」と私は呼び、それをいつでも持ちたい、と思うわけです。

それと、重要なのが

「本当に新しいことを対話によって見出そうとするなら、使い古された言葉では表せない。むしろ、普通の言葉の集積によって、その意味をあぶり出し、まだ言葉を与えられていないそれを共有するしか方法が無い」

ということです。

正に、その「感性と知性」が必要な時に、相手の人が「良くある使い古された普通のこと」を言い始めてしまったので、私は失望したのでした。

いやいや、そういう平凡な人間にならないように、哲学や宗教があるんじゃないの?と私は思ったのです。

が、私は学歴も修行歴も何の所属も無いので、だいたい「そんなこと主張したって、それはあなたの個人の意見でしょ?私は〇〇大学で△△先生に師事していましたから、本筋のものを習っています!あなたの言うことには信用がないし、価値もない!(黙って私の言うことを聴けばよろしい)」

ということで終わってしまうので仕方がないですね。

そのような時、私は「ええと、あなたご自身の見解や意見はどこにあるの?」あなたの意見とその知識との整合性を語って下さい、と思ってしまうのです。

そのような場面に出くわすと「学習の自負の危険」を感じます。

もちろん、基本的には学習と知識は、人の精神を広げる性質の方が大きいと思います。(しかしそれで人が開放されるわけではない)しかし「自分の学習と知識に対する自負」は感性を鈍らせます。

私は、眼の前に今、起こっている出来事を、既存の、どこかの誰かが言った、いわゆる哲学や宗教や芸術の世界が使う単語の意味のまま当てはめて自分を納得させるのは、自分の感性や知性が起動していない事と思いますし、もしそうなってしまい、自分の学習や知識に自負を持つなら、それは知識や経験が活用されていないのですから、その「持ち物」はむしろ邪魔になっているのではないかと思うのです。

それは「知識や経験が人を眠らせている」ことだと思います。

どんなものにも、良い作用と悪い作用があるのが自然ですので、当然、知識や経験は無用と思っているのではありません。

知識や経験、学習が悪いのではなく「それへの自負」が悪いわけですが、知識や経験、学習は「自負」を連れて来ます。その警戒心は必要だと思います。

その警戒心・・・それは知性の特徴の一つと言えると思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?