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古典を扱う際には

私が古典を扱う際には、

「古典」を扱うということは「自分の師匠や、自分の前世代の有名作家の古典文様を使った作品を、さらにマネすることではない」と考え扱います。

伝統工芸系では古典と称しながら上記のようなものがとても多いのです。

私は自分が直接古典に触れて、そこから「新しくなにかを産み出すこと」が大切だと考えています。

そうすることによって「古の人と現代人との文化的出会い」が起こるわけで、それが伝統の面白さです。

さらに「古典の本質を増幅させるために再構築する」ことが必要で、それが無いものは「コピーをさらにコピーして・・・と続けると画像が荒れる現象と同じ=その制作物は伝統とは関係のないものになる、あるいは伝統の亜種になってしまう」ことになります。それは避けなければなりません。

だから、キチンと古の人の制作物と向かわないで、自分世代のちょっと前の、あるいは同世代の古典文様の作品のマネに、少し自分の個性を乗せるような安易な制作をすることは古典を扱っているとは言えないわけです。

「有名な古典文様を使ったからといって、現代人としての必然から産まれた何かがそこに宿っていないなら、それは内容的に古典とは呼べない」ということです。

上にも書きましたが、日本の伝統工芸の世界だと、ちょっと前か同世代の日本画の画家のマネをしたり、数十年前の洋服や何かしらのデザインのマネをして「モダン」と称することがとても多いように思います。

もちろん「古との対面」によって、結果的にほぼ古典のトレースのようになったとして、それが「現代人が必然により再構築した結果がそうなった」ものならそ現代においても新鮮な良いものになります。それは更新された制作物だからです。

そういう場合は、変に現代性を主張しようと、必然なく意図的に古典を歪めてしまうのは間違っていますし、結果は最低なものになります。何か新しいことをしなければ、と勢い込んで必然のない制作をしても結果は良くならないのです。

本当に、むづかしいですね。

それと、良くあるのが「これ、コンセプトを古典としているだけで、普段と同じ仕事じゃん・・」というものです。

どうしても作家制作のものは、一人の頭脳と感覚から出力されるので、なかなか作風を更新することは出来ません。だから「自作の解説だけ更新する」わけです。それも避けなければなりません。

何にしても古典は原油のようなもので、そこにはいろいろな新しいものを産み出せる「素材」が眠っています。

だから、それはただ踏襲してもダメで「しっかり加工する」ことが必要になります。

もちろん、加工が必要無いことを見出したなら、何もしない、ということが最も適切な制作ということになります。

「時には何もしないという勇気」も必要です。

どちらにしても、古典をやるなら、キチンと観察し、把握することが大切なのだと思います。


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