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オタ活をする先生と布教されるギャルの教室

「つまりどういうこと?」

「んー…正確に伝えたいからあまり語弊を生むような言葉は使いたくないんだけど、まぁ端的に言えば〇〇っていうことだよ。」

「じゃあ最初からそう言えよw」

会話の中で往々にして発生してしまう現象。正確性が大事か伝わりやすさが大事かというテーゼとアンチテーゼ。学生の内発的動機づけを増長するのは先生自身が能動的にその分野を研究し続けているか、が大事な因子となってくる。つまり「オタク」であるかどうか。

先生というオタクは布教活動をすることが社会からのニーズでありその対価として報酬を得るという特性を保持する職業であり、その推し分野を如何に魅力的に説明できるか、推し分野に興味がない、その分野を嫌煙する人をも沼に引きずりこみ、如何に生徒をオタク仲間、同志とするできるかが問われる職業である。と言えるだろう。
では最もオタクから離れた存在は?

ギャルだ。

研究者や探求者であるオタクくんは長期的快楽や知識の供給や発見により報酬系が稼働するが、
一方、ヒッピーや、踊り念仏、大乗仏教に観測される瞬間的、直感的快楽により報酬系が稼働するという性質があるギャル。
オタクくんは自分の対極の存在である。「ギャル」にどう布教したらいいのだろう。

がんばれ!
オタクくーん!

そこで頑張るオタクくんに1つ目の壁が立ちはだかる。

「ギャル」は
できるだけわかりやすい話を求め、
「オタク」は
できるだけ正確な話を求める。

という思想の差である。
基本的にオタクくんが布教を行いたい。のであって、ギャルが布教をされたがっていることは稀なので、恒常的にオタクくんが正確性を下げ、わかりやすさに舵を切ることになるし、それが筋であるのは明快だ。

だが、

わかりやすさを求めた結果、文脈の誤読や短絡的理解の癖がつき、思考の肺活量とも言うべき長期的思考が困難になる。長い話の伏線を理解したり、【A=BでもありCでもあり、そのどちらでもなく、BCであるともいえる。】と言った答えが1つではなかったり、そもそも答えが無いような問や、人それぞれ自分の答えを見つけるのが大事。といった哲学思考や数理学思考、コンセプチュアルアートのような思考法が行いない生徒が増えていってしまう。
「個人の幸福を第一に考える潮流のある現代では、一部、オタクくんになりたいものだけが智者を目指しオタクくんとして生活すれば良いじゃないか。」
という意見を受けたことがあるが、
私が生まれた2004年頃からネット通信の普及により、様々なハードやソフトが開発され、日本のサブカルチャーは
漫画、筐体ゲーム
アニメやテレビゲーム
プリクラやVine、YouTube等動画配信サービス
XやInstagram等各種SNS
アマゾンミュージックやNetflix等各種サブスク
TikTokやInstagramのリール機能等ショート動画
BeRealやInstagramのストーリー機能

等々
流行り廃りはあるものの瞬間的快楽を追求するソフトや、不快感を感じにくかったり、不快感がすぐに取り除かれ、不快感以上の快感がソフト側で担保されているソフトが多く開発された。
今後、サブカルチャーの発達により、今まで以上に「思考の肺活量が少ない人類」や「不快感への耐性が極端に低い人類」が数を増やしていくと思われる。

民衆の民意がギャル側に寄り、オタクくんが教室ならぬ国家の隅っこに更に追いやられることで政府や国家の学級崩壊を招くのではないか。

当初の私の想定よりもだいぶ話が大きくなってしまったが、
教室にギャルが更に増加する学校で立派な勉強オタクとして、
先生は布教の仕方を勉強をし続けることで勉強オタクを体現し、布教活動を行っていきたい私は日々思いながらオタ活をしているのである。

いつ推し変するかは私にもわからないし、その時はまたここで、ブツブツ壁に向かって話そうと思う。


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