岸本悠生

コンセプチュアルアーティストで教育に民芸やゲーム性を撹拌しながら探究している彫刻学科で…

岸本悠生

コンセプチュアルアーティストで教育に民芸やゲーム性を撹拌しながら探究している彫刻学科でボランティア団体会長のサンドイッチメーカーです。脱科学エスノセントリズム社会を目指して色々実験しています。noteは学徒としての個人的な発信です。

最近の記事

オタ活をする先生と布教されるギャルの教室

「んー…正確に伝えたいからあまり語弊を生むような言葉は使いたくないんだけど、まぁ端的に言えば〇〇っていうことだよ。」 会話の中で往々にして発生してしまう現象。正確性が大事か伝わりやすさが大事かというテーゼとアンチテーゼ。学生の内発的動機づけを増長するのは先生自身が能動的にその分野を研究し続けているか、が大事な因子となってくる。つまり「オタク」であるかどうか。 先生というオタクは布教活動をすることが社会からのニーズでありその対価として報酬を得るという特性を保持する職業であり

    • 美術科目とアート思考の関係性について

      美術はその名の通り「術」にフォーカスした分野だ。何か新しい概念をインストールする時は「理論」と「技術」(術)と「歴史」の三方向からアプローチすることが大切であると考えているのだが、日本の学校教育での教科名は未だ、 美の術となっている。 「歴史は美術史があるけど、アートにおける理論って何なんだ。」 という疑問が湧いた時、その流派は2つに別れる。 1つ目は「美学」派閥、 2つ目は「アート思考」派閥 である。 1. 「美学」派とは 一般的に美術の理論教育としてあげられるものであ

      • 徒然なるままに生きる

        私は根元が永遠に布団の中で丸まっていたい人間なんですよ。だからこそ自分が「めんどくさいな」とか「やりたくないなぁ」って、誰かから「やれ」って言われたわけでもないのにやってる作業がだるかったり嫌だったり面倒臭かったりうざかったりする作業だと自分のやってる作業は少なくとも瞬間的な快楽を得るために行なっているわけではないということが確認できて少し安心します。自分がなんで楽しいのかを楽しい瞬間に分析するのって難易度が高いんだ。そういう生活をしていると発作的に猛烈に布団の中で丸まりたく

        • 脱人間性と人間性を失うことについての考察

          私は宗教についてまだまだ勉強始めたばかりで認識が甘かったり、解釈がズレていたりすること多分にみられると思うが、それも記録として残していきたいので、あしからず。 仏教では解脱と呼ばれ、道教では羽化と呼ばれる、脱人間的性質を持つ高位存在への昇華現象。各種宗教で語られる修行や苦行を研究していくと本能的、直感的に「この修行をしたら脱人間性を得ることが出来そうだな」と思わせてくる説得力を持っている。ここからはより強く私の解釈に寄った話になるが、その脱人間性を得ることはホモ・サピエンス

        オタ活をする先生と布教されるギャルの教室

          平和と道徳について考える。

          逃げることの強さ、いいですね。見ましたよ「ヴィンランド・サガ」、あれハチャメチャに面白いですね、物語としてよく出来てるなーと感心しました。さて、今日は平和と道徳について考えていきます。 僕は昔から規則や道徳、倫理で語られる「みんな」という主語の外側として扱われているような感覚があります。寂しいね。規則も道徳も倫理も、「みんなが平和に暮らすために必要なものである」という指導を受けてきたのですが、その場合、「岸本悠生の平和」は担保されないことがあって、そういうときに疎外感を感じ

          平和と道徳について考える。

          彫刻学科について考える。

          「彫刻学科は全員同じ課題を作るの?」 振り返ると油絵科の先生がいた。 「えぇまぁ。今年の1年生は今のところ共通課題ですね。」 「彫刻学科の授業は冨井さん(主任教授)が決めてるんだよねぇー?」 「はい、恐らく。」 先生の眉間に皺が寄った。 「私は彫刻家じゃないからさー、あんまり言えないけど、おんなじ課題っていうのはねぇ、うん、」 言葉を濁す先生、その顔のまま立ち去ってしまった。 今日は彫刻学科の教育内容について考える。 彫刻学科と近い領域として名前が上がる工芸と学科比較しつつ

          彫刻学科について考える。