平和と道徳について考える。

逃げることの強さ、いいですね。見ましたよ「ヴィンランド・サガ」、あれハチャメチャに面白いですね、物語としてよく出来てるなーと感心しました。さて、今日は平和と道徳について考えていきます。

僕は昔から規則や道徳、倫理で語られる「みんな」という主語の外側として扱われているような感覚があります。寂しいね。規則も道徳も倫理も、「みんなが平和に暮らすために必要なものである」という指導を受けてきたのですが、その場合、「岸本悠生の平和」は担保されないことがあって、そういうときに疎外感を感じるわけですね。平和の正体見破りたいという気持ちが小学生の頃から燻っているのです。

本日は7月5日(水)。前期の授業が終わりを迎え始め、私が受講している道徳活動の理論と方法Bでも、レポートの提出が指示されており、テキストである「道徳科教育講義」を読んだわけですが、まさか、ここまで儒教OSが日本文化の根っこに強く絡みついているとは思っていませんでしたね、より強く実感しました。ここで一つ文句が生まれるわけですよ。「貴殿ら教職課程の教授陣は、クリティカルシンキングの発達を促している割には、己らが出来ていないのではないか?」というものです。ここでなぜそう思ったのかと言いますと、「道徳や倫理や規則というものが、学校教育に必要なのか」という問いがクリティカルシンキングにより生み出され、否定されたからです。従来、学校教育は国家統治としての政策として施行されています。国家統治というコンテクストから学校教育を俯瞰すると、その中で道徳科教育や校則の存在意義はしっかりと筋が通っており、その正当性が見て取れる。だが現代、マイノリティが声を上げる潮流がじわじわと広がってきています。フランス革命の時の挙動と近いものを感じます。現行の、一人一人が2割の無理をして作り上げる平和ではなく、一人一人がやりたいことだけをやれる世界に出来るかもしれないときが来たんじゃないかな、と感じているんです。明治維新の時と同じ質の条件が揃いつつある現代は、今後既存システムの破壊が民主主義の次の社会OSによって行われ、強烈な揺らぎと大きな犠牲(でないといいな)を払いながら、確変します。既存の前提を疑うことから始めたデカルトのクリティカルシンキングが天動説指示世界だった中世欧州の時と似た質の神聖視による盲信により、損なわれているのではないでしょうか、

心のままに動いたときの犠牲と向き合う強さよりも、
心をそのままにした時の振るわれた大いなる力に耐えられる強さを持っていたい岸本悠生です。

平和と道徳について考える。

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