見出し画像

月の重力は地球の1/6、チーズナンの重力は想像の6倍

今日から12月ということもあり、2023年はどんな年でしたかね、という話題がちらほらと見えてくるだろうと思うと嬉しい。日常というものはなんだかんだ微ドラマティックで微ドラスティックなので、振り返ると笑顔になることの方が多い。嬉しいことだ

わたしは今年新しいことといえば、SF小説を好きになったのだ。カシワイさんの表紙に惹かれて、キム・チョヨプさんが書かれた『わたしたちが光の速さで進めないなら』を読んだのがきっかけだった  

短編集なのだが、そのどれもがキラキラと愛おしかった。感傷と哀愁が光のベールみたいに物語たちを包むような本。今年の6月のベスト読書体験だった。
そこから少しずつSF小説を読み始めて、最近一番好きだったのはプロジェクト・ヘイル・メアリー。この本は本当に、本当に楽しく読んだ。上下巻あって最初ひるんだけれど、終わる頃には読み終わりたくなくてゆっくり読もうとするくらいだった。

わたしは長らくSFという分野に対して偏見があったと気付かされた。「こういうやつ」は、ものすごく壮大なスケール!果てしなく広い世界!未知のあれこれ激ヤバ!みたいな話ばかりなんかなと思っていたけれど、実はむしろものすごく個人的、普遍的なのっぴきならない出来事が人々を宇宙や深海や科学の世界に向かわせるのだとわかった。
これは本当に大きな出来事だった。生きているといろんな出会いがあるけれど、その中でもささやかながらきらりと光る。

さて、なぜこんな話をしようと思ったかというと最近重い/軽いという形容詞を食に使うこととその意味を加齢とともにようやくわかり始めたからなのである。
油に対して胃腸の解像度が高くなってきたなと思っていたが、これまではガッツリもサクッとも皆等しく美味しいものだった。それが最近、いわゆる重いものを食べると、おなかを中心にしてわたしの体のまわりだけ違う惑星みたいな重力を帯びる。逆もまた然りだ。
小さな宇宙を体のうちに秘めながら大人をやっているなぁと思う(胃もたれのおしゃれな言い方ってことにしていいですか?)。

しかしどっこい、食欲というものはプリミティブ。普遍のひとつ。抗えないもののひとつ。
そしてわたしは時々瞬間最大風速的に対象がはっきりとした食欲というものが訪れることがあり、その中でもよく吹く風はチーズナンの姿をしている。

チーズナンって何なの…いやダジャレとかじゃなくてほんとに、何であんなに美味しいんだろう。やや熱いくらいの温度で蕩けたチーズの塩気とムチムチとした歯触りがドワッと流れ込んできて、その周りを、時にサクサク、時にムニムニとした香り高い小麦が覆って合わさる。その心地よさはもはや本能が求めているレベル。小麦と乳製品の組み合わせは色々あるが、その中でもトップクラスに美味しく、罪深く、愛すべき存在だと思う。

わたしがこよなく愛するチーズナンの中でも特におすすめなのが、西荻窪や吉祥寺に系列店のあるSajiloさんのものだ。他のチーズナンと異なる点を書くとすれば、周囲のナンの部分がカリフワモチモチなのだ。独特のオイリーさも愛しているが、初めてサジロのチーズナンを食べた時は衝撃だった。五感がざわめいているのかと思った。あまりにも美味しすぎる。素敵なインテリアとあいまって、いつも夢みたいなランチだ。

そしてそう、賢明な読者諸君はお気づきになられているだろうが、チーズナンの重力というものはものすごい。もはや引力のように胃袋を地面へと近づけているのではと思うほどに、重い。月の対義語は太陽?そうかもしれない、しかし重力の観点で言うならばチーズナンを挙げたい。月の重力は地球の1/6らしいが、チーズナンのそれは想像の6倍くらいある。

それでもやめられない。だって食べたいという気持ちもチーズナンへの愛も、わたしという個人、最小単位の社会が擁する普遍的なのっぴきならない気持ちだから。ありふれた感情が本の中の人々をあらゆる世界に連れ出すように、わたしもまたこのありふれた感情、またの名を食欲に、連れ出されてカレー屋さんに向かうのだ。そのたびに喜び、そのたびに重力のバグに震える。チーズナンとの邂逅は未知でもないが毎度新鮮な出会いのようにさえ思う。

人々を宇宙に、深海に、未知に向かわせるのは普遍な想いや誰かを助けたいという小さな個人の大きな決断だ。わたしはSFの主人公ではないけれど、のっぴきならない小さな決断をもっていつも生きているという意味では近しいのかもしれない。SF、すこしふしぎ、すごくフワモチ、スペシャルな浮遊感。なんでもいい。チーズナンは美味しくて、重い。

チーズナン、大好き。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?