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きみがいたあらゆる場所。

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断片集
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2019年10月の記事一覧

-1_13

 「冬の夜一人の旅人が」と男が書きつけたその瞬間から、数かぎりない雑踏がその上を通り過ぎた。詩人がそこから遥か隔たった東国の島国で「百代の過客」と詠ったのもそうしたことについての洞察、悟りだった。伝説の上で語り継がれてきた――名も埋もれてしまった人々に――出来事と、詩人の直観と教会での説教と、文学者の憂鬱とそうしたひとつづきのくさりのようにしてあなたの元に至ったことも不思議ではないと。わたしはそば

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-1_12

「たくさんのことを忘れてしまうんだ」
「は? それってすっごく素敵なことだと思うけど」
「今日君が夢に出て来たよ」
「へえ。気持ち悪い。何してたの?」
「今みたいにダボダボの汚れたツナギ来てね、廃工場みたいな所で体格の良い男とやり合ってたよ」
 あなたは中空を眺めて鋭い口笛を吹いた。
「でね」
「勝ったの?」
「でね、男に鉄板で顔面を殴りつけられて」
 再度ヒューっと口笛を吹いた。
「何度も何度も

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-1_11

 例えばカレが画面に、一本の線を引くと水平線の無限遠の彼方から漣が寄せて来たのをすばやくつかみ、彼はわたしたち一切れ一切れ(それが有限個数え上げられ得るとしての話だが)を差異化していく過程で、カレ自身もまた同じく差異化され、分化されていくと言えるだろうか、わたしたちと同じに。
 左手の人差し指を深々とカッターナイフで抉ってしまった血は机上のタブレットにぼた、ぼたと大きな滴った滴は彼を右手で拭い取っ

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-1_10

 入浴シーンから始まる。
 水は青い浴槽に満ち満ちた。
 カレは水晶みたいな窓ガラスを、から透いて過ぎる車のヘッドランプを眺めて天井に浸かっていた。水紋。たゆたう。飼い猫が主人に身体を擦り寄せるみたいに湯に浸かった。じき夜明けだ。飼い猫が主人の眠る毛布に身を寄せるように浴槽に身を沈めた。そのまま宇宙の底まで潜っていくようにして身を沈めた。午前四時。カレはキミが来るまで、カレはもう眠ろうとカレは思う

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-1_9

 やるせない体、ママの産んだ体にあぐらをかいて座ってるちっぽけなうす汚いの良犬でカッターで指を切ればセロハンテープを巻かれ指しゃぶり癖が抜けないからとまた指にセロハンテープを巻いてヨダレでベトついたあたしの親指を手首をチギれるくらいに掴んで水道蛇口まで引っ張っていってジャアジャアビシャビシャに噴き出させた銀色のじゃ口を勢い良くひねって殺したパパは、ママだったかな? もういいやあたしだって俺だって僕

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-1_8

 川は雨水を蓄えて増水した泥水は河原へあふれて湿原となった元々は草叢だった水辺に真っ白い鷺が一羽、佇んで川上の方を眺めている、どこまで明るいのか、そのわからない果てしない処とその仕上がったばかりの彫像のように真っ白な一羽との空隙に何もかもがあったので川の一筋一筋には決して無数の分けることの不可能な直線のうねりと、泥状の反響と、まるで無縁みたく車輪を回転させて行っては戻らない往復をくり返す土手の上に

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-1_7

 歌を唄っているわたしたちはちょうど曲と詩との間の空白のように蝶がひらひらと上下上下上下回転して全体では風のように滑るように上昇していく雪は粉雪の切れ切れが一陣の風に巻き上げられてくるくると灰白の曇天へ舞い上がるときの空白にいる、その場所から歌って。あなたは、わたしへ。じゃあわたしはあなたへね。ふふって笑う白銀の平野の向うにいるあなたへあなたの唄い方はわたしの唄とは違う歌は山の森の森林の奥のもう何

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-1_6

 一人切りで歌うのでは物足りないと言い泣くには涙が必要なもんだから友だちの二人を誘ってバンドを組んだ夜明けのことだ。バンド名は「夜明け」を意味する英語の〈ドーン〉から取ったとドーンは言った。わたしたちは、とドーンは言った。夜明の太陽の光のような、まだ暗い、けれど明るく、これから光が満ち満ちて(「満ちて、満ちて」とドーンは言ったかもしれない)世界に希望があふれるようにまちがいなくわたしたちや、世界じ

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-1_5

 誰もいたのではない。ひと切れの雨が降ってはいない。夕刻はどこでもない処でいつも女がいた時はなかった。私はだれでもない、見た。どこにも向かわない処へ歩く、座っていた。何の音も、わずかなひびきだけでも聞こえた。距離がわからない。私は女でないだった。私は何ものも持っている。何も見えており、手にふれる何もない。何ものをも持って、何も言葉にできない言う。全然。一切が、私は必死になって、自分が差し伸べた腕の

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-1_4

 〈わたしたち〉はもうずいぶん長い間・・・・・・と女は続けた。麻で織られた灰色の埃臭いローブから覗く腕は骸骨のように細く手は朽木のように深く皺寄っていた。それでいて表情は赤児のように無垢で、頬は熟れた林檎のように赤く瑞々しいのだった。
 途方もない旅です。〈わたしたち〉の背の向うに、途方もない量の時間が、洪水の後の瓦礫のようにうず高く投棄された、誰も顧みる事のない塵芥に煤けた灰色の時間を。と女は続

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-1_3

 身も千々に砕けるような豪雨の後、再び静寂が訪れた。
 水に浸かった外灯は火花を散らし、濁った水上でゆらゆらと青白い炎を上げ始めた。家々の屋根は湖上に転々と島のように浮かんでいた。
 女はその一つの上に立って凍結したみたいな星空を眺めていた。上空に夜を迎えて初めてこの時その光の群れを見出したとき、膨大な時間が過ぎてしまったことを女は知った。途方もない処に来てしまった。と言った。女しかその声は聞いて

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-1_2

 ビクニが臓腑を濯いだ後の池はしばらく血生臭かった。当然だろう。腐敗した細胞は泥となって沈殿し、池の底の淀みからはガスが立ち上った。滓を栄養にして小さな生き物が繁殖し、百年をかけて池は一面に青緑の藻で埋まった。無数の藻はさながら大都市のように密集し、層を成していた。一つ一つがさらに群体でもあるこれらの藻は、集合住宅のようにそれぞれの核にさらに微小な生命体を住まわせていた。ヒトにとって何億年にも相当

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-1_1

 ヤオビクニは腹を裂いて彼女の内臓を引き出した。泉はどんどんと汚れた血で染まっていった。ビクニは彼女の穢れの濯ぎを終えると水中に水母のように広がった彼女の臓腑を肚へとしまい込んだ。
 その二百年後、大風が吹いて濁流が流れ込んだ。その頃には泉はビクニの汚れは既に泥となって堆積し、彼女の血の赤さだけが褪せることなく泉に留まっていた。汚濁は瞬く間に泉を灰色に埋めてしまった。不老不死の血を呑んで生きていた

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 いつの間にか日が暮れかかっている。萱の茂みの中で何かが動いた! クギが言った。どこどこ? さっきまで怠そうにしゃがみこんでいたルナが勢いよく立ち上がった。ほんとかよ。ハトはねむそうな声を上げた。きっと鳥か何かだろう。もう帰ろうよ。確かめもしないで何言ってんの? ルナが甲高い声を上げた。クギはすでに茂みの中に踏み込んでいた。ガサガサと密集した植物をかき分ける音がする。ダメだ! 何もいない。やがて茂

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