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朝に目が覚める

連日、朝に目覚めている。もちろん、その分仮眠もあるのだけれど、とりあえず朝に目が覚めている。僕は基本的に朝には目覚めない。仮に目が覚めたとしても、起きることはない。けれども、ここ数日、なんとなく、朝に目が覚めて、起きて、エッセイを書いたり、なんやかんやしている。

起きるというのは、難しいことだ。起きるためには、ある程度眠気が収まっている必要がある。眠気はその日その日によっていつ訪れるかはわからない。それをわかると思い込むことは、自分を生きづらくするので、思い込まないように注意している。睡眠や疲労感や体調なんて、それをわかったような気になるなんて、傲慢だと思う。人はそんな簡単に、健康になどなれない。健康という状態が何を指すのかだって人によって違うのだから、その状態をコントロールしようなんて、または、ある規則にのっとって自分を規制しようだなんて、傲慢だと思う。人間はそんな簡単には、規則正しい営みは送れないし、それが最善だと断じることは、傲慢だと思う。

目が覚めるだけでは、起き上がれない。眠気が収まり、その上で、起き上がるまでが、長い。起き上がるというのは、なんともハードルが高く、その時の身体は一際重たい。半日の間、目が覚めることはあっても起き上がれないことが多い。それをもどかしく、辛く、不快に感じていながらも、起き上がれない。それは、本当に起き上がれないからである。起きたくないからではない。もちろん、起きたくないという心性が関係している可能性はあるが、それだって断定はできない。そんなに身体や心の仕組みは単純ではない。起きたくても起きられない、もしくは、起きたくない気持ちを抱えながらも起きたいと強く願っているのに、起きられない。そんな日常を受け入れながら生きることを、健康ではないと言い切れるほどに、健康は潔癖な意味でしかないのだろうか。健康は理想ではない。実態である。小康状態と言ってもいい。その個々人によって健康は違うし、その実態も異なる。

そんな中、幸か不幸か、ここ数日、なぜか早朝(朝の5時から7時半くらい)に、起き上がっている。それが良いことなのかわからないけれど、僕にとってはごくまれな現象である。ここ数年、家ではほとんど寝ていることが多い自分、特に早朝から午前中は寝床から起き上がれない自分としては、異常と言ってもいい。これは何か体調の変調なのか。早起きは良いことだという思想がはびこる現代社会において、これを幸いととらえるのが自然だろうか。これを異常ないしは危機ともとらえるのが、適切な気がしている。これは、精神医療の分野で、早朝覚醒が必ずしも良い意味を示さないことからも、明らかである。少なくとも僕にとって、これは、ちょっと、異常事態なのだ。受け入れるけれども。

例によって、「叶姉妹のファビュラスワールド」を聴いている。恭子さんが、「伝える気持ち」が大事だとおっしゃっている。わかる。これは、ひらすらに授業という形式で、学習内容とか、気持ちとか、大切にしていることを「伝える」ことを生業としてきた自分として、巡り巡って辿りついた感覚と合致する。人は、「伝える気持ち」をないがしろにしがちだ。それは、相手の立場を慮るということと似ている。自分がどう伝えるかはもちろん、何を伝えるかさえ、大事ではない。大事なのは、相手の関心であり、相手の疑問であり、相手の心の動きなのだ。もちろん、その時間に伝えなければならないことはある。「学習事項」とされることはある。しかし、そこに拘泥してしまうのは、本末転倒ではないか。最終的な目的は、その生徒自身にとっての学びである。カリキュラムをこなすことではない。もちろん、指導事項として、所定のカリキュラムにのっとって、扱うべき内容を保証するという視点もあるだろう。しかし、そこに拘泥する必要はあるのだろうか。大枠として、計画として、そういった指針は必要かもしれない。けれども、それより大事なのは、個別の事情であり、個別の学習なのではないか。全体として所定の内容を伝えることは、教科書がしてくれている。それをあえて人が時間を取って説明するのであれば、そこには人にしかできない仕事があるのではないか。特に、相手が心に負担を感じていたり、言葉を自在に扱えなかったり、疲労感があったり、悩んでいたり、そんな日常でありふれた営みや、長く抱える生きづらさによりそい、その中で最適な指導や支援を行っていくところに、人間が授業をする意味があるのではないか。だからこそ、授業は生徒が中心であることを、忘れてはならないと思う。教師がやりたい授業、理想的な授業、カリキュラム通りの授業を行うのではなく、その場の生徒が求める授業を行うべきではないか。それが結果的に、学習の成果につながっていくのではないか。いうなれば、魂の入った授業と、魂の入っていない授業である。それを、「伝える気持ち」がある授業と、それがない授業と言い換えてもいい。魂が入るとか、「伝える気持ち」があるとかは、一方的な教師の情熱や熱意のことではないと、僕は受け取った。本当に魂のある人間、本当に伝えようという気持ちがある人間であれば、相手の心の動きを感じながら授業するはずなのだ。「伝える」とは一方通行なものではないし、ひとりよがりなものではない。伝えたい相手の心の動きを捉えながら、カリキュラムなり学習事項なりを伝える営みなのだと思う。だからこそ、プレゼンテーションであろうが、授業であろうが、あまり準備をしすぎないことも大事だと思っている。想定をしすぎることで、かえってその瞬間の相手への意識がおろそかになり、また、ある種のこだわりによって、相手のペースを邪魔してしまうことが多い。大事なのは、理想の授業をすることではない。その場限りの誠意ある交流によって、最善の授業を営むことである。授業という営みをじっくりと過ごすことが、人間が行いうる学習機会の最大のメリットではないだろうか。単に効率的に学習事項を伝える媒体はいくらでもある。本や動画、ウェブ学習など、いくらでも手に入る。そこにはない学習効果をもたらすことが、教師の良さではないだろうか。繰り返すが、大事なのは理想の授業ではない。最善の授業を営むことである。それを、自分に言い聞かせる。人間は大切なことを、すぐに忘れてしまう。社会規範や思い込みの中で、大切なことをすぐに見失ってしまう。

本を二冊出版した。一つは、小論文の指導書である。予てから小論文の良いテキストが見つからずやきもきしていたことと、小論文の指導に迷う先生の声が多いことで、小論文の学習書を作ろうとは思っていた。その際は、例題を中心として、解説はほとんどないものを想定していた。現代にはびこる小論文への不安感と問題の多くは、小論文の指導書にあると思っている。「かくあるべき」という小論文のあり方を唱える書籍や情報が広まることによって、本来多様であってもよい、というか多様だからこそ見えてくる小論文試験の良さが失われてしまっている。そこには「かく書くべき」という偏った表現に対する信念があり、それもまた当然複雑で多様なものとして流布されている。結果、学生はもちろん、指導者もその思想にがんじがらめにされて、文章を書くことを不自由にしてしまっている。ましてや、それが文章全般にも応用されてしまうことの悲劇。百歩譲って、論文の体裁や形式を重んじるのは、わかる。それすら時と場合、発表する場によって変わる。そのあたりは、小熊英二『基礎からわかる論文の書き方』(2022)に詳しい。アカデミックライティングですら、多様なのである。それなのに、それを文章全般に適用するなんて、ばかげている。そういった中で、学習書ビジネス業界の中で育てられた悪しき信念を苦々しく思いながら、学習書を作ろうとした。しかし、学習書は生徒の立場で学習するためのものである。しかし、小論文対策をする上で、学習書を作ることは難しい。結局は、様々な設問に触れ、やってみるしかないような気がしている。何かしらの基準が明確にあるものではないし、基準を設けてしまったとたんに、失われてしまうものがある。理想はわかる。数多くの教育者が、小論文についての各々の理想を掲げて、模範を提示した学習書を作っている。ただ、それらは例ではあっても、唯一ではない。僕自身の好みとは合わない例だってもちろん存在するし、それをだめだと断ずることもできないだろう。そんな中で、学習書を作ることは困難なので、指導書を作ることにした。指導に関してであれば、ある程度指針くらいは出せるような気がしたのだ。もちろん、それが唯一ではなくとも、参考くらいにはできるものを作りたいと思った。学習書の難しさは、それで学ぶ学習者が、その内容を妄信する可能性を考える必要があることだ。しかし、指導書であれば、ある程度理性的な判断が可能な立場にある指導者によって、消化することが期待できる。こんなもの気にくわないと、捨てることだってできる。小論文指導について、どのように取り組んだらよいのか困っている指導者に対して、助けになるようなものであれば、作れると思った。

もう一冊は、古典文法の本である。二年前に、文法書は一冊出している。ありがたいことに、日々、微々たるものだけれども、読んでくださる方がいる。やはりこういうジャンルの本は読んでもらえるのだとわかって、それに味をしめて、同種の本を出版したいと思った、というのはある。ただ、やはり前回の本でも、長すぎると思ったのも一因だ。基本的に、古典文法なんて勉強せずとも良いと思っている。そのあたりは、「古典文法序説」(2021)にも書いた。それでも、あるていど勉強したい人のために、あるていどだけ勉強するための本を作った。しかし、それでもまどろっこしいところはあるし、なんなら多いと思った。だから、もっと短くまとめたものを用意したいと思った。そんなもの、個人でまとめることもできるくらいの内容だ。しかし、その塩梅を調整するのが難しい。そのあたり、僕だったらこのくらいのダイジェストにしますよ、という内容のものを作ってみた。内容は前作の三分の一くらいだけれども、同じ値段である。そもそも、量に応じて値段が上がると思うのがおかしい。むしろ、洗練された分だけ値段を上げてもいいくらいだ。五十分かけるところを、十分で学習できるのだから、当然価値は高くなってしかるべきではないか。そもそも、相談業務だって、長ければいいというものではない。長く時間をかければ、それだけクライエントの体力や集中力は削られる。できれば、短時間で効果をあげることを目指した方が良いではないか。経験上、一時間は長すぎる。せめて二十分以内で十分だ。当たりはずれがあっても、二十分くらいであれば耐えられる。僕は以前はよく占いに通っていたので、時間が全てじゃないなと思う。もちろん、一時間くらいかけて愚痴を言いたいときもある。けれど、それはそれで疲れてしまう面もあるし、いらんこと言い始めたりもするし、ましてや占い師から余計なこと言われたら大変だ。つまりは、量より質ということはわかっていながらも、量で測っちゃう生き物だよということを嘆いているのである。

ということで、眠くなってきたので、少し寝ます。今は午前八時です。

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