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古典文法序説

 まず、日本語の文法には三つの種類がある。まずは「国語文法」。昔から日本人が研究してきた日本語の文法だ。二つ目は「日本語文法」。外国の人に日本語を使えるようになってもらうための文法だ。三つ目は「学校文法」。学校で教えるために考えられた文法だ。
 僕たちが勉強するのは、この「学校文法」である。

 「文法」と聞いてメジャーなのは、「英文法」だけれど、こちらは西洋の文法の考え方で示されたものだ。
 一方、「学校文法」は「国語文法」の一部が元になっている。「国語文法」は昔の日本人が考えた文法で、西洋の文法の考え方とは大きく違う。
 だから、同じ学校で勉強している文法でも、「英文法」にはない「体言」とか「用言」、「形容動詞」なんて言葉が出てくる。
 また、同じような言葉を使っていても、示すものが少し違っていることもある。例えば、「動詞」という言葉も、「英文法」では「述語となって、動作や状態などを表すもの」だが、「学校文法」では「基本形の活用語尾がウ段で終わる用言」を言う。 
 そこで、まず知っていただきたいのは、「学校文法は英文法とは全く違う文法だよ」ということだ。

 さらに、「学校文法」は「国語文法」とも違う。
 そもそも言葉は時代によって変わるし、その捉え方や感じ方も人によって様々だ。そのため、「国語文法」には一つの決まった正解があるのではなく、いろんな考え方がある。
 しかし、それらを学校で教えようとすると、教える人の考え方や価値観によって、教える内容が変わってしまう。近代の学校では、日本全国なるべく同じ内容を学ぶことになっている。
 そこで、「国語文法」の中から一説を持ってきて、学校で教えるべき文法を「学校文法」として、近代の学制が定められた明治時代に定めたのだ。
 だから、現代の実感として違和感があったり、まどろっこしく感じたり、例外があったりもする。つじつまが合わないこともあるし、もっと適切に思える考え方だってできると思う。
 けれども、とりあえずはこの「学校文法」の枠の中で授業は行われ、入学試験でも出題されることになる。
 だから、本当に言語学に関心があったり、常にすっきりした説明を求めたい人には申し訳ないけれども、「学校文法ではこうなっている」と割り切ってもらうことも必要なのだ。

 ところで、なぜそのような「学校文法」、中でも「古典文法」を学ぶ必要があるのか。
 そもそも、文法の知識に乏しくても、古文を読むことは可能だ。むしろ、現代とは違う言葉の意味や失われてしまった言葉、昔の文化や当時の習慣、文章のジャンルやよくある構成の知識の方が、読解には役立つ。受験用語で言えば、単語力と古典常識の方がずっと読解に役立つと思う。
 また、いくら文法的な知識があったとしても、古文を読み重ねなければ、古文を読めるようにはならない。多種多様な文体、発想、価値観の古文に読み慣れなければ、新しい古文に向き合っても、理解することはできない。
 よくあるのが、文法的な知識に基づいて直訳はできるのだが、内容が理解できないということだ。逆に、文法的な知識には乏しいが、概ねどんなことを言いたいのか理解してしまう人も存在する。そういった点からも、単語力と古典常識の方が役立つ場合も多いのだ。

 では、なぜ「古典文法」を学ぶのか。それはひとえに、「解説を理解するため」である。
 学校で古文を勉強するときには、どうしても文法用語が出てきてしまう。
 例えば、「昔男ありけり」を、ふんわりと「昔男がいた」と解釈できる人は少なくないだろう。
 しかし、そのふんわりも理解できない人に、「どうしてそう解釈できるですか?」と問われたときに、「なんとなくわかるでしょ?」とか、「そうだから、そうなんだ」と言ってしまっては、身も蓋もないだろう。
 そんなときには、「『昔』、『男』は今と同じ意味。『あり』はラ変動詞の連用形で『いる』と訳せる。『けり』は間接過去の助動詞『けり』の終止形で、ここでは単純に『~た』と訳せばよい」なんて解説が必要になったりする。
 こんなふうに、全ての古文をふんわりと訳せてしまえれば、文法なんていらない。けれども、学校で勉強するにあたっては、ふんわりともわからない文に接することも多い学生に対して説明するために、文法用語が必要なのだ。
 
 また、このような文法用語を使うことで、体系的に理解しやすくもなる。ひたすら「こんなときはこう訳す」「こんな場合はこう解釈する」という個別の例を一つひとつ覚えるよりも、文法用語を用いて体系的に理解することで、効率よく新しい文章に向き合えるようになることもある。
 例えば、「にけり」は「たのだった」と訳すと覚える方法もあるけれども、「完了の助動詞に過去の助動詞が続いたもの」と理解した方が効率的な場合もある。それに、それが自分にとって全く未知の用例であったとしても、文法的な根拠から意味を推測することができる。
 もし、大量の古文に接することができるのであれば、このような方法はむしろ遠回りかもしれない。体系的に文法を理解するよりも、大量の用例に触れた方が、古文の実践的な読解力は身につく可能性もある。
 しかし、現実的にそこまで多くの古文に触れることが難しいこともある。それでも、新しく出会う古文を読めるようにならなければならないという無茶な要請のために、体系的に文法を理解するという方法が取られがちなのだ。

 ただ、実態としては、「古文の勉強とはすなわち古典文法である」という俗説がはびこっているからかもしれない。教える側が漫然と教えられてきた古典文法を右から左に伝えていく。「すいかとめて」とか「さみしいりかちゃん」という暗記術とともに、形式化された知識が伝えられていく。
 そういった文法知識が読解に役立つことはあるし、大学入試で出題されることもある。けれども、それほど力を入れるべきものなのかというと、僕は疑問に思っている。
 文法を勉強したいとか、おもしろいと思う人は少数派だと思う。それなのに、そこに力を入れることで、多くの古典嫌いを生み出してしまっているんじゃないか。大人になってからも、「古典が嫌いだった」「古典なんてなんで勉強するのかわからない」と言わしめてしまう要因がその辺りにあるんじゃないかと思う。

 だから僕は、古典文法を学ぶのは最低限でいいと思っている。状況によっては、全く扱わなくてもいいとさえ思っている。そして、実際の古文にあたる中で、必要に応じて文法的な知識を深めていけばいいと思う。
 



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